批評

クリスマスの夜に『バスキア』を観ていたのだが

クリスマスの夜にツタヤにいき、見たいビデオを探していたがこれといったものが見つからず借りてきたのが『バスキア』だった。なんとなくクリスマスの夜というのは、バスキアっぽい感じがしたのだ。NY的な画家の生涯である。96年の映画。バスキアという人…

『ツォツィ』−アフリカ人によるアフリカ人の為の映画とは、いつから可能か?

『ツォツィ』という映画を見ていた。今年の春頃、日本でかかっていた映画で、DVDになっていた。南アフリカとイギリスの資本で撮った映画である。アフリカの事柄についてアフリカ人の立場から撮られる映画というのは、まだ余りないのだと思う。「ダーウィ…

ポケットの中の中上健次

日曜日の名古屋行きドライブだが、ジャンパーのポケットの中に一冊、僕は中上健次の短編小説集を文庫本で入れていった。ドライブの方はずっと忙しく暇になる時間がなかったので、旅の途中ではそれを読まなかったのだが、家に帰ってきてみて、その旅では読み…

『殺人の追憶』

「グエムル−漢江の怪物」を作ったポン・ジュノ監督の前作に当たる映画である。80年代の韓国の田舎における連続殺人事件を巡って、韓国社会の位置について浮かび上がらせている映画である。しかしこの映画『殺人の追憶』が人々に見られるとき、それはどのよう…

『ゾディアック』

デヴィッド・フィンチャーの一番新しい作品『ゾディアック』をDVDで見る。これはダーティハリーの第一作でモデルになった、サンフランシスコで実際にあった連続殺人鬼の事件について、イーストウッドのダーティハリーでは、最後に犯人を突き止めることに…

ジョン・トラボルタの『ミッドナイト・クロス』

ブライアン・デ・パルマ監督の映画で1981年の作品である。ブライアン・デ・パルマといえば、かつてはキャリーやフューリーといったオカルト物、サスペンス物、ホラー物を撮っている。最近では「ブラックダリア」というのを撮ったみたいだが、これはまだ見て…

『松ヶ根乱射事件』

山下敦弘の映画で06年の作品。あの『リンダリンダリンダ』の監督である。完成度の高い映画を作る人だと思う。『松ヶ根乱射事件』も、ブラックユーモアによって彩られた山間部の田舎町に生きる人々の模様を上手く描き出している。この監督の持つユーモアのセ…

ブコウスキーの哲学的潜勢力

最近、ブコウスキーのことをよく考えているのだが、現代小説のスタイルが、ブコウスキー的なミニマリズムに収斂していくことは、小説という構造の運命を考えた時に、必然的に、ある種の極として生じた事態であったはずだ。そもそも小説という形式が、現代人…

政治と謝罪

ボクシングの亀田親子の話は、もう収まったという感じだろうか?あの親子のストーリーは、ある種仕掛けられた、マスコミ特にテレビ局による演出作用として、パブリックイメージとしての一家の像が雪だるま的に肥大していったという感じだったけど、見てれば…

今日は『グッドシェパード』を見たんだが−

今日は映画の日だったので何を見ようか迷った。まず森田芳光監督のサウスバウンド。内容は、元過激派だった親父が、子供と女房を連れて沖縄の田舎に引っ越すという話。東京で暮らしていた時は親父を馬鹿にしていた子供は、沖縄暮らしで親父を見直すとかいう…

近代労働観の変遷−パウロとレーニンに共有された誤謬

土曜日の今村仁司シンポジウムで、桜井哲夫さんの纏めた近代労働論の概観が大変分かりやすかったのだが、会場で配られたレジュメより、ちょっと引用してみよう。 近代に至ると、近代資本主義的市場経済の前提と共に古代的な労働への偏見が崩壊してゆきます。…

意味と『奇跡』と視線の根本的な変更

重要な本、偉大な本というのは読むという体験の質を変えるが、映画においてもそうだろうか。偉大な映画とは、見ると云う事の質を変えてくれる。視線の態度を変えてくれる。カール・ドライヤーの『奇跡』とは、世界の読み方、そして人間の読み方について、そ…

池袋文芸座にてカール・ドライヤー二本立て

火曜は池袋文芸座でカール・ドライヤー二本立てを見ていた。『怒りの日』と『奇跡』である。ビデオやDVDではなかなか見れない作品だが−置いてある所を知らない−、夕方から夜の客席はほぼ埋まる位、入っていた。若い人から上のほうまで客層は色々。前にド…

想像的平面と象徴的平面の混乱

ラカンがセミナール『精神病』で示したように、想像的平面の再認と象徴的平面の再認を取り違えることによって、妄想の発生は起きている。(それは単に取り違えているというよりも、何らかの前提になっている経緯によって、その区別を付けることが出来ない状…

妄想の意味

今日の引用。ラカンの『精神病』より。(「精神病への問いの序論」) 了解という概念の意味するところは、一見極めて明瞭に見えます。それはヤスパースがそれを手がかりに、了解関連という名の下に、彼の精神病理学のいわゆる総論の要とした概念です。了解と…

「他者が無い」とはどういうことか?

今日の引用。 ジャック・ラカンのセミナール『精神病』より。(1956年。「穴の周囲」) 私はこの主張を、異なるグループに属する人の口から聴いたのですが、それは「その人にとって、他者というものが無いという人を分析することはできない」というものです…

『サッド・ヴァケイション』

青山真治の『サッドヴァケイション』を金曜の夜に見た。金曜の夜最終回に東武練馬で見たのだが、駅前のショッピングセンターの階上にあるシネコンである。客の入りは、シネコンの夜にしてはまあまあという感じか。席で十二分にリラックスして大きな態度でス…

『SICKO』−エイゼンシュテインからマイケル・ムーアまで

マイケル・ムーアの新作『SICKO』を見る。マイケル・ムーアは、映画について、問題意識の構造から、説明的に問題の在り処を構築するものである。この論理的に映像を畳み掛けていく方法は、もはやマイケル・ムーアの御馴染のものとなり定着している。映像によ…

ラカンからレヴィ=ストロース

最近ラカンとの繋がりからレヴィ=ストロースを読んでいたのだが。そういえばこの人まだ生きているのだ。1908年生まれである。ずっと20世紀の思想が生まれ死んでいく様を見ていたのだろうが、この位まで生きているとどんな気持ちがするのだろうか。来年で百…

『SIN CITY』

ロバート・ロドリゲスとフランク・ミラーの共同監督の『シン・シティ』。05年の作品である。ここに更にスペシャルゲストの監督としてタランティーノの名前が連ねられている。CGを駆使したハードボイルドの映画で、構成される映像の力をフルに引き出すこと…

モンゴルに於けるブルジョワ革命と朝青龍の行方

朝青龍騒動に火花が飛んでいる模様だ。朝青龍というモンゴル人の力士が、行動において横綱として相応しくない、横綱の品格というのを汚しているのではないかという話が、問題に浮かんでいる。モンゴルで逞しく育った天真爛漫な青年は、日本の相撲界にある暗…

動物にはナルシズムがあるのだろうか?

動物にはナルシズムがあるのだろうか?それらしきものはあるはずだ。まず動物は、イメージを認識するのか。やはりイメージ認識における原初的なメカニズムはあるはずだ。それは蝿にさえある。蝿の眼と脳の連関性にもある。何か原初的な把握のメカニズムであ…

ボギーの時代−孤独な行動者像の起源

そうえいえば友人にひとり、ラオール・ウォルシュがすきだという人がいて、僕は見たことがなかったのだが、彼の言うことに興味をもって見てみた。図書館で『ハイ・シェラ』というラオール・ウォルシュのDVDを見つけたので見たのだが、ハンフリー・ボガー…

グリフィスの時代と『国民の創生』の屈折率

深夜にグリフィスの『国民の創生』を見ていた。近所の図書館にあったDVDである。グリフィスは、1915年に、まだ無声映画としての『国民の創生』を作り、1916年に『イントレランス』を作っている。グリフィスという人は当時、アメリカよりもヨーロッパで人…

『戦艦ポチョムキン』を深夜に

借りてきたDVDで見ていたのだが、それは淀川長治の世界名画クラシックというシリーズのもので、冒頭に必ず、あの懐かしい淀川長治の解説が入るものだ。淀川長治によると、自分の選ぶ映画史的なベスト作品とは、チャップリンの黄金狂時代と、このエイゼン…

一国社会主義幻想の幻滅から、一国平和主義の現状まで

よく左翼を自称するような知識人で、こんな話を嘆き口調で言うのを聞くのだが、何故、日本では反戦運動が起こらないのか?アメリカやヨーロッパの国では、イラク戦争でも湾岸戦争でも、立派に反戦運動がずっとあって、市民は普通にデモを街中でしているのに…

享楽のエコノミーと善の機能

享楽が、あらかじめ禁じられているとは、どういうことだろうか。宗教的には、割礼という儀式があるわけだが、それが特に女子に行われる場合、少女期に陰核を取り除いてしまう。イスラム圏では、女子に対するこの割礼が、今でも平然と行われている地域はある…

ソクーロフの『太陽』

たしか6月の頭頃にここで、ソクーロフやタルコフスキーのDVDがレンタルで出ないような流通の構造をなんとかしてくれと書いたのだが、去年の日本公開だった『太陽』はやっぱりレンタルに出ていたようである。日本の天皇裕仁をテーマにしてそこそこヒットし…

サドによって文学的表出とされたキリスト教的構造の限界点

昨夜は、ラカンのセミナール『精神分析の倫理』の下巻にある15章の「侵犯の享楽」という、サドに関する論考を読んでいた。まずラカンは「享楽のパラドックス」が存在することを示している。享楽は法の次元の周辺に呼び寄せられている。それが享楽として想像…

敗北の文学の敗北、という結果をどう認識すべきなのか?

宮本顕治の『敗北の文学』を読んでいて面白いと思ったのは、既にこの論文において「自己否定」という言い方が出てきているところである。この物言いが、どの辺りに起源のあるものなのかは、宮本顕治以前のプロレタリア文学の草創期過程を振り返られなければ…