『SICKO』−エイゼンシュテインからマイケル・ムーアまで

マイケル・ムーアの新作『SICKO』を見る。マイケル・ムーアは、映画について、問題意識の構造から、説明的に問題の在り処を構築するものである。この論理的に映像を畳み掛けていく方法は、もはやマイケル・ムーアの御馴染のものとなり定着している。映像によって問題を説明するということが如何なる意味を持つのかについて、マイケルムーア的なスタンスと映画の関係性とは、その都度今までの作品で生成してきた個性的な方法論として色づけられている。ドキュメンタリーで語ると云う事は、ノンフィクションの次元において語ると云う事だが、マイケルムーアの対象としてカメラに捉えられる事象のそれぞれとは、語りにおける意味という流れから、常に切り離されえない。そこでは純粋な物体について説明しうるということは有り得ず、常に語りの意図によって編集された意味性の中で、それぞれの対象や人物が、わかりやすく、他者に了解可能で共有しうるものとして語る事が可能なように配置されている。

このように、切り取られた映像の数々について一定の意味と方向性において並べて編集していく映画的行為について、モンタージュという言い方もある。モンタージュによる映像の編集とは、必ず作者による何らかの意図が込められるわけで、それはもう既に最初に切り取られてきた事象そのもの、物体そのものとは距離が生じている。ある意図的で方向的な語りの中で、物は自己主張を与えられている。つまり編集=モンタージュの行為の中には、常に何らかの情報操作が含まれうるのだ。逆に言えば、この情報操作の構造から逃れている編集映像とは存在しない。

マイケルムーアの常なる意図とは、政府や権力の立場にある物の情報操作をまず暴き立てていきながら、それをやはりムーアによる、別の、もう一つの価値判断の中で組み替えていくことになる。つまり、情報操作を批判するものとは、ムーアにとって明らかにもう一つの情報操作にあたる。もっとも映画作家である以上、この意図性、意味性の構築の特殊性から逃げられることがあるわけないのだが。そして、ムーアこそは特定の情報操作にこだわる映画作家とされていて、逆にアメリカでは多方面から常に告発を受けている存在であることは、周知の事実である。

マイケルムーアはそれにしても、物に対してどのような秩序を与えなおすことが正しいと考えているのだろうか。まず、今回の映画でも、現段階でムーアにとって明らかになっているスタンスとは、アメリカ社会を批判する在り方を、社会主義から分離させること、共産主義から分離させることが大きな軸としてある。社会の全体的な在り方を批判し告発する在り方とは、別に必ずしも共産主義−アカに帰結するようなことはないのだということを、繰り返し映画の中でも啓蒙しようとする。この示し方とは、何かムーアにとって、そうは思われたくはないという、アメリカ的なマスイメージに対して繰り返す神経症的な手つきさえ見受けられることだろう。彼の示す価値観とは、単にリベラルであるのだと云う事が、その都度明らかにされる。それではリベラルの根拠を、マイケルムーアは何処に見つけることができるのだろうか。ここでムーアの作品とは、常に不明瞭な問題の岩礁に乗り上げているのだともいえるだろう。ムーアが最終的に訴えている価値にあたるのは、大抵の場合、アメリカ国家の価値を根本的に問い直すことに繋がり、ナショナリズムとしてアメリカをもう一度呼び直すことになっている。

今回の、アメリカの医療保険制度における格差不均衡を告発した映画SICKOにおいても、ムーアの結論とは同様なものとなっている。社会問題の告発の行方を最終的に回収しうる大きな全体性の枠組みが、結局ナショナリズムのソフトな再興であるということは、かくも普遍的な構造なのだろうか。おそらく現実的な線で思考すれば、それはそうなのだろう。アメリカ内部の退廃した格差の問題とは、もう一度アメリカ国家への全体的パースペクティブを持った愛情として、再構築しなければならないという、凡庸ではあるが、最もわかりやすい結論となっている。この楽観的に広く他者と共有可能な大雑把な枠組みの中にしか、問題解決の糸口はないと考えるムーアの姿勢とは、現実的であり、愛があり、最大公約数的であり、もっとも暫定的であるが故に正しいものになっているだろう。

ムーアは、結論において間違えるという、ある種の間違え方をこそ嫌っている。全体的パースペクティブを妨害してしまうような近視眼的思考や怒号を嫌っている。ムーアは、どんなに悲惨な現実を描き出そうと、最後はそれを、楽天的な未来の約束と投影へと、なんとかして結びつけようとするだろう。その間には、相当の断絶と飛躍が横たわっていることは、ムーアがそれまで映画で描写してきた通りのことである。その点において、ムーア型の情報操作には、偽りにおいて偽りつつも偽りがないという、絶妙にユーモラスな位相を見出しているのだ。このユーモアの存在に見る者は気が付けるからこそ、ムーアの映画とは広く、左や右の枠組みを越えても受け入れられているのだ。

モンタージュとはエイゼンシュテインが明らかにした、映像上の編集手法である。エイゼンシュテインの映画において、時間の流れとは情報操作に満ちていた。それはイデオロギーと映像の綜合という理念的な結晶化を映画のフィルムという媒体に対して押し付けようとする不可能な試みであったことは、もはや証明されている。エイゼンシュタインにおいても、物体における脚色とは、物体自身とは解離した物語性に回収されている。しかし同時に、カメラが既にそこで捉えてしまっている意図せざる物体の有様において、映画の構造自体をそこから問い返せる反照性をも見出しうる。ドキュメンタリーという手法を巡る、エイゼンシュテインの面白さからマイケルムーアの面白さへかけて、物体を出汁にしてそこから語ろうとする意味制作のユーモアにおいて、何かが繋がっている。結果的に時間が経てば、そこに与えられたイデーの間違いが指摘されても、まだそこには改めて見ても残りうる、物体の素直な眼差しが発見されうるだろう。

物体の実在と物語の恣意性の背離に引き裂かれながらも、まだその設定の限界枠=時代性を抽象的に示しながら乗り越えられる、ドキュメンタリー映像の完全性とは、語りにおけるユーモアの手つきによって、かろうじて上手に保存されることができるのだろう。このテクニカルなユーモアを可能にした映像作家として、エイゼンシュテイン以来に、マイケルムーアとは、映像と意味の関係において何処までも自覚的でありうる、時代の最中においては不可視の点にあたっている限界の枠組を、やはり目に見えない無意識的なやり方で超越している、無意識過剰な実在をフィルムに刻み付けた重要な作家になっている。