『サッド・ヴァケイション』

青山真治の『サッドヴァケイション』を金曜の夜に見た。金曜の夜最終回に東武練馬で見たのだが、駅前のショッピングセンターの階上にあるシネコンである。客の入りは、シネコンの夜にしてはまあまあという感じか。席で十二分にリラックスして大きな態度でスクリーンを見れるという。シネコンの夜だと客が自分の他に二、三人とかいうのも珍しくないのだが、適度に、決してうるさすぎはしない程度に、お客は入っているという感じだった。なんというか、青山真治のファン層というのは出来上がっているのだろうなとも、お客の顔ぶれなんか、表情の感じなんかを見ながらも思ったのだが、たぶん青山真治の固定的なファンというのは、彼の示すある種のモラリズムによって了解可能になっているのではないだろうか。青山真治が、一定の観客の心を掴む構造とは、彼の映画によって示される、モラリズムの了解のスタイルが前提になって、彼は一定安定的な観客を持っているのではないかということだ。

映画は面白いと思う。ジョニーサンダースの砕けた様な歌声が入り、始まりのテロップが入るとき、それは絶妙のタイミングであり、中国の不法入国者をトラックに乗せて受け渡した仕事の後に、密入船で父親に死なれ孤児になった男の子を自転車の後ろに乗せて浅野忠信が朝焼けの空の下を、ひたすら自転車をこいで走り去っていくイメージ。違法入国の孤児と浅野忠信の関係だが、彼自身がまた昔、母親に蒸発されてアル中の父親に自殺されているという過去を持つ、かつての孤児であった。捨てられた子供的なものを巡って、映画のストーリーが起動する。しかし、ジョニーサンダースの歌声によって導入されたこの映画は、気が付いた幾つかの理由から、別にジョニーサンダースとは関係ないのだろうと思ったのだ。これはジョニーサンダースよりも明らかに、中上健次を意識している話である。中上健次の設定を下敷きにしている映画である。サッドヴァケイションにおいて前提になっている中上健次の構造とは「枯木灘」から「地の果て至上の時」である。捨てられた孤独な男の境遇を巡って、中上健次的な家族の物語がそこで反復されようとしているのだ。舞台は北九州であり、本州と九州を繋ぐ巨大な橋のたもとにある街の風景が物語の舞台となる。

青山真治の映画とは、ある種モラリズムの中に、系譜的に存在する。僕は実は、青山真治を見ていて思うことは、この人の影響的な起源というのは何処にあるのかというと、70年代の終りにNHKのドラマのシリーズで、山田太一の書いたドラマで、「男たちの旅路」という鶴田浩二の出ているシリーズがあったのだが、あれを思い出すのだ。それはガードマンたちの物語で、鶴田浩二が戦争の記憶を引き摺りながら、何か日本的なモラリズムを再生させているストーリーである。青山真治がジョニーサンダースとは異なるというのは、このモラリズムを巡るあからさまな意識ゆえである。青山真治は、ある種モラリズムに依拠することによって、物語を纏め上げる。これは例えば黒沢清などには、まずないものである。このモラリズムの意味は、起源とは何なのか。九州的なモラリズムの在り処、もしかしたら彼の九州男児的な背負いに性質があるものなのかもしれない。むしろこのモラリズム故に、青山真治の映画とは抵抗を呼び起こすものではないのか。それの流れはやはり日本的なドラマの構造の系譜にあるのだろう。

サッドヴァケイション」において、青山真治の映画はある保守的な欲望に捉えられているのが理解されるだろう。その保守的な構造とは、モラリズムの根拠を巡る構造にあたる。しかし思えば、青山真治とは以前から、モラリズムを映画的に反復させていたものだったのではないか。本作の前提にあたっている「ユリイカ」というバスジャック事件の話でもそうだし、モラリズムが露わに家族的構造として、日本映画的なものの系譜としても反復されたものとして「月の砂漠」があるだろう。保守的な欲望のスタイルが、中上健次的な物語の欲望と結びつくことというのは自然な邂逅である。中上健次青山真治が感染するのは最初から必然的な背景を携えてのことだったのだろう。「サッドヴァケイション」とは、家と世継ぎを巡る物語の構造によって反復されている映画的なイメージの造形である。つまり本質において、その休暇とは、sadではないのだ。そこがジョニーサンダース的なものと青山真治の異なる由縁である。家と世継ぎを巡る物語とは、通常、血の意識によって連帯が育まれているが、しかし血のイメージとは、本作ではそんなに過激ではなく、表面から退き控えめなものになっている。それは中上健次のサーガにおいて、血の意識とは浜村龍造から下降して来るものであり、父親の持つ男根的意識から直接に迸る過激なものであったが、青山真治の本作においては、血の関係は、石田えり演じる千代子という母親によって媒介される、間接的で控えめで、表面の欲望は慎ましく抑えられた、内部に秘める連帯感の意識として表現されている。中上サーガと青山サーガの違いとは、このように、父性的なものと母性的なものの違いとして、今様に蘇ることが出来たものとして把握できるだろう。

浅野忠信が「白石健次」という、ある孤独な男性像を演じている。白石健次は最初、九州で中国の不法入国者の手助けの仕事をしている。物語の中で健次という男の境遇とは、人生自体が孤独な休暇であるような、社会の裏側にあるポケットのような場所で、さ迷いながら、違法の仕事で金を稼いでいた。健次がこの裏社会から追い出されることになるのは、密入国させた中国人たちの復讐によるものである。健次の仲間は撃ち殺されたが、健次だけはなんとか生きのびた。裏社会のシノギの手段を失った健次は、北九州で運転代行の職につく。この運転代行の仕事も、やはり孤独な仕事であるには変わらない。次から次へと、深夜に酔っ払った客達の帰り道の世話をする仕事で、客達の密度の濃い生の傍らで、彼らの宴の後片付けをするように、ひとつひとつの仕事を機械的にこなしていく。人生に酔っているのは常に客達であり、代行のドライバーではない。ドライバーはその酔っ払いの隣で黙々と仕事をこなすのみである。やがて健次は客であったホステスと愛し合うようになる。健次にとって、人生自体が孤独な休暇であるのかという、感触の薄い宙を漂うな状態は、まだ続いている。健次が代行の仕事の最中に発見するのは、自分を捨てた母親の消息だった。健次は、長い空白の時間を経て、母親と再会するが、ここで健次には一つの核になる目的が生じることになる。母親に対する復讐である。

母親は、健次の境遇とは異なり、今ではもう過去と訣別し、安定した暮らしの中にいた。北九州の橋のたもとで、小さな運送会社の経営者の妻となって暮らしていた。間宮運送である。間宮運送は、社会の中で事情のある者達、脛に傷のあるような者達が引き受けられて、会社の構内に寮を作り、住まわせて働いている、擬似家族的な共同体であった。医師免許を失った元医者や、ヤクザに借金で追われている男などが、匿われるようにして、社長の人格によって面倒見てもらっている。この間宮運送という経済的共同体の運営を中心にして、健次と母親の物語、そして健次とは腹違いの弟、経営者の父親、住み込みで働く従業員たちの物語が、絡み合っていく。間宮運送に住み込みを願いにやってきた18歳の女性として、ユリイカの時の梢(宮崎あおい)が現れる。小さな運送会社として運営される経済的な擬似共同体を物語の媒体としながら、そこで家族的な繋がりが持つ意味、そして家族を持たない者達、家族から追放されている身の上の人間達にとって、そこで新たに共同性が再生産される有様を、描き出している。人間の繋がり方とは、何か必ず、家族と似たもの−文字通りのfamily resemblanceだが−に形式化されざるえないのだろうか、実際の家族と擬似的家族関係が入り混じる形で、そこでは構成されている。

擬似共同体のモラリズムとは、何処まで本物のものでありうるのだろうか。それは何処で壊れうるのだろうか。モラルをもてるか否かが、映画の登場人物を巡って、それぞれ問われ続ける。運送屋の息子で、健次とは腹違いの弟にあたる高校生だが、スーパーで悪い仲間と万引きを企てている。運送屋の住み込みの宮崎あおいは、彼が万引きする現場を止めに入ろうとする。なぜ彼女は、かくも決然とした意志をもって、運送屋の息子が万引きする現場を止めに入ることができるのだろうか。運送屋にいた息子の高校生、健次の弟はグレテいる。高校生は家の中で問題を起こし続けるが、彼の行動を抑えることを巡って、運送屋の住み込みの人々は、連携的なモラリズムを演じる。しかし、このモラリズムの連携する様子について、映画の中では疑いがもたれていない。むしろ観客はここで過度に共感してしまっているのではないかとさえ感じられる。それは本当によい連携なのか?よい共同なのか?実際には道徳的な連携の底にあるものが、反動的なものであるという事はないのか。*1(こういった無意識的な反動性の連携こそが、子供にとっては悪を触発する原因となるが。)映画の中では、それを疑う視線とは、積極的な形では提示されていない。青山真治の映画において、ナイーブにモラリズムは支持されているのである。このナイーブさが、実は青山真治の映画がファン層を確保している理由でもある。ここに疑いの反照する契機を混ぜ込んだとき、たぶん青山真治の客層は半減するのだろう。モラルについてナイーブであること、それは信仰の事柄−信心の領域である。この信心について原則的であり、強固に疑義を差し挟ませないという断定性において、青山真治とは、NHK的であり、日本のドラマの系譜で言えば、山田太一山田洋次的なもの−家族的な意識を巡る、流通と了解の延長上に見ることができる。これは青山真治の映画が広く観客に受け入れられる前提を作っている系譜的な構造であるが、同時に、彼の映画を限界付けている閉域の素描でもある。*2この映画の中では、何故運送屋の息子がグレテいるのか、息子にとって悪を触発された構造とは何なのかが(家族のものなのか、学校によるものなのか、地域的環境によるものなのか)原因が全く示されていない。(おそらくそれが本当に息子にとって宿命的な精神の病ならば、原因とは家族的環境の中にこそあるはずである。)*3

孤独な休暇とは、人にとって何をもたらすものだろうか。孤独な休暇の意味を問い返す。そしてある種の人々にとって、孤独な休暇とは果たして終了することが有り得るのだろうか。むしろそれは永遠に続く孤独な休暇なのではないか。サッドヴァケイションにおいて、孤独な休暇の存在と、その横には強固で歴史的で伝統的なる、家族的な回収のストーリーが重力として動いている構造が示されている。そこにはやはり中上健次的な構造の反復を見ることができる。家族的な回収への誘惑、それは中上にとっても青山真治にとってもかくも強い力学の磁場を醸し出している。健次は、孤独な孤児的な境遇から、突如として、家族的共同性の濃い血の連携へと、一転して引き込まれる。しかしこれも健次にとっては戦略の一環である。家族的な、愛憎入り混じるシガラミ関係の中心へと躍り出る。母親とは、石田えりの演じる千代子である。しかし千代子というのもここでまた何を考えているのかよくわからない。健次の復讐的な企みに気付いてるのかもしれないが、彼女の抱いている根本的な欲望とは、それよりももっと別の次元に飛んでいるのである。

千代子の意識するもの、千代子の欲望とは、家を継ぐという意識である。健次を、運送会社の後継ぎにしようという彼女の強い欲望が働くことになる。この千代子の演じている位相が、中上健次の設定でいうところの、浜村龍造にあたるものだ。「枯木灘」から「地の果て至上の時」へとかけて、紀州の土地において秋幸と腹違いの父親で土建屋の経営だった浜村龍造の関係性が、青山真治の設定では、北九州の運送屋において、母親の千代子と白石健次の関係として反復される。そしてやはり、中上健次の筋書き通りに、腹違いの弟殺しが起きるし、白石健次の刑務所入りもおきることになる。刑務所に入った健次に面会にいき、あんたを後継ぎにすると、千代子はガラス越しに語りかける。健次には俯いたまま返す言葉がない。後継ぎと家という意識を巡る執拗な意識が、「浜村龍造」から千代子にかけて反復されているのだが、なぜ千代子が、そんなにそこの意識に拘るものなのかは、実は理由がよくわからないのだ。無根拠に、それをそう考えるのが当たり前のように、開き直ったように構えた明るい顔をしながら、息子を一人殺されているにもかかわらず、後継ぎについて、千代子は主張し続ける。しかし後継ぎの意味とは、他の誰にも伝わっていないのだろう。間宮運送の社長の親父にとっても、健次の子供を身篭っているというホステスだった新しい母にしても。そもそもこの理解できなさというのが、中上においても浜村龍造的なものであったことが思い起こされる。

千代子の楽天性、楽天的な欲望の実在には、理解できないものが大きい。この楽天性は何かの開き直りからくるものなのだろう。そして千代子の顔に浮かべる微笑とは不気味である。この不気味さとは決して彼女のいい加減さから来るものではなく、殺された弟の葬式で、坊主が弔いをしている中で、ただ一人、自分は弟の部屋で、白装束に身を包み、神妙に正座し悟り済ましている姿を見れば、確信犯的な、血族への意思であり、物語を大きくしようとすることへの(大きな物語への?)開き直った欲望であることがわかる。これに対して、孤独な休暇の欲望とはどう答えるのだろうか。刑務所の面会室で、ガラスの向うで俯く浅野忠信のイメージが残り続ける。孤独な休暇の欲望とは、何処かで終わるものなのか。それは物語の回収の欲望と、どう決着をつけるものなのか?続編について、監督は再び考案中であるはずだ。

*1:サッドヴァケイションにおいて、人々の連携する様が幾つかの形態で出てくるのだが、一つは、悪の連携、悪の輪である。間宮運送の、健次とは腹違いの弟にあたる息子とは、高校生で反抗的な息子だった。勇介である。彼は普段から仲間とバイクを乗り回している。スーパーマーケットの中で高校生が集団万引きを企てる。それを横で目撃した宮崎あおいが決然とした態度で止めに入る。高校生の万引きは、他人の目を盗みスーパーの棚から万引きした商品を、次から次へと袋の中に入れていき、袋はラグビーのパスのようにして、仲間達の手で受け渡していく。店員に見つかり追いかけられる。高校生は集団プレーで、店員たちの裏をかきながら、うまく逃げおおせようとするが、間に、宮崎あおいが立ち塞がり、高校生たちの企みは潰され、捕まる。勇介は警察に補導され、夜になって母親に連れられタクシーで間宮運送に帰ってくる。父親の社長は、勇介に近づいていき、頬に殴りをいれる。間宮運送の従業員達がそこへ駆け寄り、二人を引き離す。健次はその様子を眺めている。スーパーの万引きゲームで、勇介を含む高校生で演じられたのが、悪の連携であり、悪の輪ならば、それに対して、この映画の中で、善の連携、善の輪というのは、社長の親父さんに世話になり恩をもっているという、間宮運送の住み込みの従業員達によって回されることになる。もちろん、それは善の輪だとしても、何か反動的な胡散臭さも付き纏う、人々の連携する模様である。人々が、道徳=善の輪として連携する模様とは、間宮運送において二回、演じられたものが映画に出てくる。一つは、家出しようとする勇介を捕まえてバイクを没収するときと、もう一つは、最後のエピソードで、オダギリジョー演じる社員の後藤を、借金取りのヤクザたちが引き渡せと脅しにきたとき、従業員達が会社の前でスクラムを張り、ヤクザを寄せ付けないという模様である。

*2:何故ここで敢えて人々のナイーブな動き方の流れについて違和感を突っ込んで言うのかというと、間宮運送の住人達が持っているある種道徳的連携性だが、あれはまさに、ナイーブなものの不気味さとしては、熊野大学やNAMの持っているある種空気と同じものに見えたからである。本当にああいう人の流れ方と直面したとき、それが別に正しいと云う事は保証されていないのだ。青山真治が「間宮運送」という設定を場所として作り出すとき、理念的な共同体の在り方を何らかの形で反映させたものとして、必然的に描き出すものとなる。それはただの住み込みの運送屋とは異なる。脛に傷を持つ者達が、人間的に身を寄せ合う場所になっている。しかし理念的な物語としてそれが示されるとき同時に、理念的なものの持つ穴についても、観る者は気が付くことだろう。

*3:善の輪だろうと悪の輪だろうと、ともに遠巻きにしながら距離を置き眺めているのが、健次の視線である。健次には実は、そのような人々の連携自体を疑っているような素振りもあるのかもしれない。間宮運送の従業員による善の輪、あるいは反動の輪によって、勇介は家出を試みるが、彼らに捕まり家の中に閉じ込められる。勇介のバイクの鍵は没収される。この従業員による善の連携、道徳の輪、そして反動の輪について、それを崩す役割をするのが、実は健次である。健次は、母親に言われたように、間宮運送に居を移して、一社員になり仕事を手伝っていた。しかし健次の腹の中にあった企みとは、最初から、母親に対して復讐を敢行することだったわけだ。言われた通りに従い会社で働いていたものの、健次はずっとそのプランを考えていた。部屋に閉じ込められている勇介のもとに健次がやってきて、バイクの鍵を渡してやる。おまえ、この家から出て行けと言う。それで勇介は、会社の人々の隙を突き、家からバイクで脱出する。この家を滅茶苦茶にしてやるというのが健次の欲望だった。健次は自分の目的を実現させつつある。健次は、それが善だろうと悪だろうと、いずれも人々の共同的な連携の形態について、批判的であり、その中には加わらない。この健次の視点、健次のポジションが、間宮運送の共同体にとって、それが詰まらないものに堕してしまうのを防ぐ役割を持つだろう。もう一人、オダギリジョー演じる若い流れ者の運転手も、人の輪から距離をおいて、それを見ようとしている、相対化的視点が含まれている。