2003-12-01から1ヶ月間の記事一覧

隠喩としてのletsⅥ

1. 昨今の地域通貨運動のブームの中では、貨幣は複数ありえるという前提が生まれた。しかし本当にそうなのだろうか?そのような前提とは素直に真に受けてしまって大丈夫なのだろうか。そこには実は、再びまた別の角度からの疑問の余地もある。 ふと考えると …

隠喩としてのletsⅤ

それにしても、通貨の流通の内部から通貨が通貨自体で脱構築しうるとは、いかなる事態をいうのだろうか。そもそも通貨あるいは特殊な経済圏の力が国家的でメジャーなる一般的な経済体制(主には資本主義経済)に対抗し、拮抗し、そこに変革的な契機をもたら…

隠喩としてのletsⅣ

地域通貨のことを別名でエコマネーというように、地域通貨の機能とは、それを担う主体の道徳的でエコロジー的な意識によって運営が任されるというのが本願であり、その機能的な本質なのである。つまりそれは一般的経済の次元とは、相当に位相を最初から異に…

隠喩としてのletsⅢ

1. 経済の一般にとって「道徳的経済」というのがありえるのだとしたらば、それはどのようなものでありえるのだろうか。また道徳的経済あるいは倫理的経済と命名したところで、それを一般的な資本主義経済から区別できるものとはなんなのだろうか。道徳的に経…

隠喩としてのletsⅡ

1. 地域通貨の思想家としての顔ももつ童話作家で有名なミハエル・エンデは、地域通貨とは「なんでもできる魔法のお金」だという自説を語った。もちろんエンデという人物の系譜を辿ればわかるように、エンデの出てきているのはドイツでもシュタイナー系の神秘…

隠喩としてのlets

1. しかし、そもそも現実に機能しうる通貨とは「象徴的なもの」でありえるのだろうか?そこには疑問があるだろう。円やドル、基本的に資本主義としてよく完成された国家の通貨というのは現在では一定安定的なものであり、日々機能もしている。しかしそのよう…

貨幣の中には顔があるのか?

インドの紙幣にはガンジーの肖像画が刷り込まれている。しかし紙幣に人物の肖像画が刷り込まれるとはどのような事情を意味しているのだろうか。果たして、貨幣の中には顔があるのか?貨幣にとってそのような事とは可能な事情なのだろうか?貨幣の中に顔を見…

神学の記憶と新しい生

純粋に倫理という次元がそれ自体で機能するということはありえない。倫理とはいつも何か別のものに包まれている。しかし倫理とは神学的な前提の元でしかありえないということはない。むしろ倫理を神学的な前提の拘束から解放しうる思考の方が本当は新しい思…

柄谷行人と宗教の意識

ところで、柄谷行人がNAMを起動するに当たって立件しようとした信条とは次のようなものであった。 1)宗教の実現なくしては、宗教は廃棄されない。 2)宗教の廃棄なくしては、宗教は実現されない。 このような条件によって成立させられるアンチノミーの…

アナーキズムとその前提

1. 非暴力という前提の元でこそ、社会では真にアナーキーな状態というのが調和的に実現されうるのだ、とガンジーは語っている。(「私の非暴力」)人間の自発性のレベルが、あくまでも自然に解放されうる状態の条件とは、非暴力が約束された前提の社会状態の…

インド的風土の性質

ガンジーはヒンズー教徒の凶弾に倒れたときこのように云ったのだという。「おお神よ…」しかし出自としてはインドのジャイナ教系だったガンジーにとって神の意識とは「それはキリスト教の神であり、ユダヤの神であり、ヒンズーの神であり、イスラムの神である…

ガンジー主義の発生

1. マハトマ・ガンジーというとき、そのマハトマとは「偉大な魂」という意味であるらしい。本当にガンジーのようなタイプの人間像が(それは簡単にもイデオロギー的な出自に関しては還元可能であるのだし)偉大であるのかどうかなどということには、興味もな…

ガンジー主義とNAM原理

1. 柄谷行人が提唱したNAM原理の中には、何故だか最終項目にガンジー主義が盛り込まれている。しかしこれは一体どういう事でどういう積りだったのだろうか。疑問の余地のある原理的な最終項目ではあった。柄谷行人がガンジーというイメージに一体何を見出し…