ガンジー主義とNAM原理

1.
柄谷行人が提唱したNAM原理の中には、何故だか最終項目にガンジー主義が盛り込まれている。しかしこれは一体どういう事でどういう積りだったのだろうか。疑問の余地のある原理的な最終項目ではあった。柄谷行人ガンジーというイメージに一体何を見出していたのかはなかなか了解しにくいところがある。

ガンジーというと、非暴力、無抵抗主義、そして植民地の帝国支配からの独立運動の成功者というものである。しかし当然の最初の戸惑いとして、このガンジーのイメージとまさか柄谷行人のイメージが合致するはずもないというものだとは思う。柄谷行人はNAM原理を発表する前から実は内なる内面的なる隠れ非暴力信仰だったのか。果たして?

彼の過去の言動から照らし合わして見ればいかにも眉唾の感じのする話ではある。間違いなくおよそ正反対の人物でありキャラクターである。しかしNAM原理の内的な展開からすると、最後はガンジー主義(非暴力、不服従)とそれの補完物のボイコット運動によって、原理的な社会運動というのは(資本と国家の揚棄)完成するはずだった。そのようなプログラムとして提示されていたものだ。

2.
ガンジー主義の内実について見るためには、インドの歴史的風土におけるガンジーの生い立ち、ガンジーの発生についてから、まずは追ってみよう。ガンジーは十九歳でイギリスに留学している。ガンジーは弁護士の職業についた。南アフリカに赴任した経験もある。若い頃のガンジーのエピソードには白人から露骨な人種差別を受けたということがある。南アフリカガンジーが列車の指定席に乗っていたところ、白人の車掌からインド人は一般席に移れといわれ、彼が反抗すると強制的に屈辱的なやり方でもってそこから降ろされた事件など。

ガンジーの身長というのは百六十五センチだったらしい。それで体重は四十五キロだったとも伝えられる。(しかしこれは断食期か?)身体的な条件としてもこれではとても暴力的にはたりえないだろう。南ア時代、イギリス軍部隊に志願兵として参加したこともあるが、それは救護班(赤十字)としての参加であった。

インドに帰国したガンジーは、ネルーチャンドラ・ボースらと共に国民会議派を結成する。当時のイギリスの統治支配は暴力的なものを露骨に伴う搾取的なものだった。国民会議派を中心にして民族の独立運動が進行した。どのようにしてイギリスの支配に抵抗するのか。そして民族の独立を勝ち取るのか。意見が分かれていた。ガンジーの提案とは非暴力で無抵抗かつ不服従というもの。このガンジーの現実離れしていると見える方針とは、実はネルーチャンドラ・ボースからも最初は冷笑されたという。むしろ実際の独立運動におけるリアリティとは、やられたらやり返せ的な志向であった。帝国の暴力統治に対しては民衆の暴力的蜂起を対置させよというものだ。

これはある種の等価交換論でもある。ガンジーの出していた主張とは「汝の敵を汝以上に敬え」という、彼の由来がイギリス仕込みのキリスト教的なものの影響なのか、インドの歴史的な風土から来る宗教的モラリズムのものなのかも定かではないが、単純で漠然とした宗教的超越性にすぎなかったとしても。あまりにも平凡な自己犠牲主義であり、贈与である。要するにガンジーとは、現実性を無視した妄想的なキレイ事を不明にのたまう者として、最初から国民会議派の中でも浮いていた曰く付きの人物だったのだ。ガンジーの最後というのはインドの独立達成の後に国内で起きたイスラム派とヒンズー派の対立抗争の中でヒンズー教徒の凶弾に倒れるものだった。

3.
実際的なものというよりも(暴力には報復によってというハムラビ法典的な、あるいは等価交換の経済的論理)、妄想の混じったキレイ事の超越論を頑なに譲らないで主張し(それは交換の論理体系に超越点を付与させるゼロ項的な次元であるが)、オルグを持続させたガンジーのほうが、結果的には民衆的な支持を基盤として現実に権力的に物事を動かすことが可能になった。権力といってもそれは民衆的な数としての権力である。これは歴史的な事実として残っている。まさにそのとき歴史は動いたのである。

しかしそれはインドの歴史的なる風土としての民衆の宗教的=オカルト的な体質というのが少々特殊な前提条件になっているのだろうとも分析できる。何故インドの独立運動においてガンジー派が勝利したのかという理由である。つまりそれはあくまでも後進国の革命の条件であり、先進資本主義の論理構造とは元から異質なものである。そのような「理念」とは少なくとも唯物論的な基盤に根差した物質的なものには属していない。マルクス的な思考とも凡そ異なる宗教的な倒立であり(頭でたっている。あるいは心で立っていると思い込んでいられる)妄想的な超越性の部類に当たる。そのようなあまりに凡庸ともいえる妄想的超越性を括弧に括ったところで、あえてその上で柄谷行人が着目しえると考えたガンジー主義の妙とはなんだろうか。

4.
ガンジーについてまずその表面的なイメージを把握するため、八十年代に製作の映画がある。リチャード・アッテンボロー監督の「ガンジー」という作品だ。アッテンボロー監督のディスコグラフィーを見ると、他には「遠い夜明け」(南アのアパルトヘイトに関する映画)、「コーラスライン」、「チャーリー」(チャップリンの伝記映画だ)、「遠すぎた橋」などがある。チャップリンアメリカの隠れコミュニストだった事を考えても、このアッテンボローという人は社会派の映画人にあたるのだろう。しかしこの映画自体は実はどうも問題のない映画だとはいえないものである。

この映画では要するにガンジーのインド人としての被差別経験だが、しかしこれは監督の配慮というか、あんまりグレートブリテンの事を恥辱的な国として描き出すことは遠慮されているように見える。イギリスの帝国的統治もその内実が露骨なものであったという実態的な映像も。むしろ当時のドキュメンタリーフィルムのほうが白黒の昔の記録フィルムでインド人をイギリスの兵隊が殴っている光景などをとてもリアルに流していたと思う。この映画ではそれは監督的にうまく回避されてるような気も、なんだかする。しかも国民会議派の中におけるガンジーのポジションやネルーとの関係(映画の中では単に友好的で友情的な関係としてのみ描かれている)は、これは相当に齟齬感のあるもので、こういったタイプの伝記映画の常として後からでっち上げられて美学的に糊塗されたものであるのだろう。だからリチャード・アッテンボローの監督の「ガンジー」とはそれ自体で全体的にキレイ事としての偽善性を演出した誤った伝記映画であるという感は否めないものだ。

6.
実はガンジーについての出ている情報というのはどうも疑わしいものが多いのだ。たとえば、ガンジーの出自についてだが、相当にチグハグに噛み合っていない違う情報が出ている。

ガンジーの出自はまずボンベイであるのだが、そこではジャイナ教商人の息子だったという説。地方の小国王の息子だったという説。官僚の役人の息子で中産階級だったという説、など、いろいろだ。これではどうも、インドのヒンズー教的な国家政策として、ガンジーの情報については相当に糊塗がなされていて、改造されてでっち上げられたガンジー像というのを流通させたのではないかと思われる。ガンジー自身の自伝もあるのだが、そこでもどうもガンジー自身の出自や生涯の様々な情報について、曖昧にしか語られていない部分というのは、多いと見られる。

社会の常としてこのように奇麗事としての肯定性をうまくまとめあげて与えてくれるシステムも、一般性の次元として必要とされているものだ。だから別にそのようなタイプの映画というのは最初から虚構で嘘で殆ど構わないともある意味いえる。すべてこれらの作品とは機能的なものだ。だから観る事によってそこから本質的な情報を摘出することは主体側の知恵の問題である。