ガンジー主義の発生

1.
マハトマ・ガンジーというとき、そのマハトマとは「偉大な魂」という意味であるらしい。本当にガンジーのようなタイプの人間像が(それは簡単にもイデオロギー的な出自に関しては還元可能であるのだし)偉大であるのかどうかなどということには、興味もない。(というかそんな話の信憑性を云々するだけでも下らない)ただガンジーの行動様式及び発想・考え方の持ち方というのに特徴的だった事情をあげれば、それは彼が「物」の実在の次元について妙に観念的で投影的な観方をしていたということにあると思われる。ガンジー精神主義というのは単に観念的であるというのではない。むしろ彼は物の次元にある種の執着的な観方を繰り返す。

例えば、ガンジーの写真の中でガンジーの向かい合う糸車のようなものを考えてみればよい。ガンジー大英帝国の支配における象徴的な商品についてボイコット運動を起こす。イギリス製の洋服というのはみんな火にくめて燃やしてしまうという行動をうった。インドの自力経済を復興させるという意図である。イギリス系繊維工場でストライキを決行する。イギリス製品の不買を通じてインドの国産品を愛用することを提唱する。だからそれは洋服を着て町を歩くというよりも、インドの伝統服を身にまとうべきだ、まとわなければならないという、共同的でかつ排他的なパフォーマンス様式になる。

2.
近代的繊維工場の機械を否定してガンジーは糸紡ぎ車に向かい合う。それは観念的に労働の原点のようなものを捉えなおし、糸車という機械のプロトタイプの態に自己同一し、主体化しようとする。それは精神統一的な一体化でもある。いかにもガンジー的なパフォーマンスではあるのだが。別にオートマティックに合理化されたイギリス製機械を否定して、原始的で単純でスピードの怖ろしく遅い糸車を偉いと思える心理学が正しいわけでもない。近代工場を否定する身振りは実は前時代的に一つ振り返るための、不合理な精神主義にも向かうだろう。

まずそのとき、糸車という物の実在というのが(原始的な機械。そしてイギリス的なモダニズムに敵対している)そのまま、ガンジー主義にとってはシンボリックな観念の自己投影となっている。しかしそのようなシンボリズムに、精神的=身体的との自己同一として内在しえると考えてしまうことはそれ自体でイマジネールな世界の膠着である。想像的な自己同一化でもそれはあるのだが、同時にそれは民族的な独立運動の渦中にあっては共同幻想として想像界の安定性を更に飲み込んでいるものだ。

ガンジーにおけるシンボリックな「物」の観念というのは、独立運動の最大ピーク時に達成された「塩の行進」にもよく伺える。当時イギリスはインド人が自ら塩を製塩して生産することを禁じていた。イギリス政府の手を一回通した税金のかけられた塩をインド人は買うことを余儀なくされていたのだ。塩の生産をインド人自身の手に取り戻そうとする運動とは、ガンジーに率いられた400キロの塩の行進によってデモンストレーションされる。それはインドの内陸地から海までガンジーが中心になってデモ隊を組み、しかもその間デモの妨害にあっても、すべてデモの参加者は自己抑制し、非暴力をある種集団的な演劇的効果としても貫くというものだ。デモははじまってから歩くごとに参加者も増え規模を増してくる。(大体400キロというと東京から京都間くらいの距離だろうか)塩は人間的生命の基幹を担っている象徴的な物質であるのだ。またここでも塩という物の次元にガンジーの運動は観念的な意味を帯びることによって、それ自体がシンボリックな民族的運動体となっていく。

3.
物に何かのシンボリックな観念を課す。そのように意味づけられた物の次元というのは別に特に正確な真実を映し出すものとも限らないものだ。むしろ歴史的に見てそのように象徴的に意味づけられた物の次元というのは常に誤りも含んでいる。その時々の社会的な情勢判断の形式によって便宜的にその都度意味付けられて変化している、あくまでも特殊な機能としての物の次元であり、その名指しの必然性である。それは物自体の真実在の次元を反映させるというよりも、運動の全体性の中で担わされた機能的なる、むしろ論理的な仮象なのだ。故にそのような運動的で社会的な場面ではいつも、物自体が見出せるが故に現れうる現実とのズレについて指摘したり表現してしまうことはタブーであり、共同的に排除させられる。

ガンジーのイギリスボイコット運動においても事情は全く同じものであり、現実にそこで起こっていた現象というのは排外的なナショナリズムであった。日本では幕末の攘夷運動にも似ている。ただ一つだけそこで特殊だった事情というのを挙げれば、それは暴力的な表出としてのデモンストレーションを伴わず、暴力的な次元については抑制されているばかりではなく、むしろ積極的にそれは道徳的マゾヒズムをデモのパレードの集団的に引き受けようとする、集団心理学的で共同幻想的なる演劇効果を伴った昇華的な運動=パレードだったのだ。

社会運動の場面におけるリアリティというのはシンボリックな物の次元に連合の紐帯を結びつけることによって、いつも共同性の平面というのを確保するものだ。これは社会運動の一般における基本事項である。運動にはそれを象徴的に表象する物の次元というのをいつも何か必要としている。その観点からいってもガンジーの実行したインドの独立運動というのは、社会運動のために不可欠なモメントというのを、巧妙に配置することに成功し、そこに記号的で機能的な意味付与というのも全体的によく配置させることに成功していた。

敢えていえばそういったものだけがガンジーの運動統率の場面における、ガンジーの描く事のできたビジョンの観念操作における、ガンジーの手腕だなともいえる。他の具体的な実務的な政治については、むしろネルーや他の人材が受け持っていたから出来た事であり、ガンジー独立運動の中で担っていた側面というのはそのような象徴的なパフォーマンスの次元においてだけだったともいえる。独立運動の一つを成功させるにも演技の上手い役者の存在は必要不可欠なのだ。(ガンジー自体について言えば彼はいわゆる「電波系」の人間だろう。特別に偉人であるとか奇跡の人であるとかいう事はないと思う。言ってる思想内容もイデオロギー的には凡庸である。具体的な実務には使い物にならない。であるがゆえに対外的なシンボリックな演出をさえ彼は受け持ってくれれば、国民会議派の全体的な運営というのはうまくいくのだ。実際に権限をもって国民会議を運営したのはネルーである。)

4.
これが例えばQの時の経験で言えば、ガンジーの「塩」に当たるような次元は「米」によって担わされたものだろう。(そのようなガンジー主義に同様のシンボリズムとして)Qは発足当時の基本については、全Qでそれが勘定して支払われる商品というのは前提には入っていなかった。基本は円の部分とQの部分を合計する事によって交換体系の基礎を作っていこうとしたものだったのが、実際には交換が殆ど動かないという状況にあっては、全Qで提供できる商品の必然性というのが要請されてくる。まずQの交換において、全Qで交換可能となったのは、他ならぬシンボリックな物の次元として抜擢された「米」だったのだ。

しかし別に先行して具体的な経済共同体の前提というのは殆ど何一つ持たないで運営のはじまったQシステムにとっては、(NAMの組織はただの情報交換媒体かスクールに過ぎないといったものだったのだし、それ自体で経済共同体といえるような次元ではいまだなかった)、「米」であってもそのような具体的な商品生産物を流通させるというのは(used品ではない)、最初から相当に無理に飛躍のある頑張りであった。具体的に本当に米の流通をそれで実現できたとはとても言えないのだが、少なくともそのような大胆なマニフェストを可能にしたのは、二代のNAM代表になった人物のもっている自然農業系のコネクションの力であった。(しかしそれはそのようにかつて一度宣言されたことがあるといったレベルで、実際にはほぼ機能しなかったに等しい)

Qにおける交換のビジョンを考えれば、それはすべての経済運営がQで為されるなどということはもちろん最初から念頭にはされていない。あくまでも円経済の実質的で具体的な経済の先行があって、その中でQの交換システムというのは「対抗ガン」的に食い込むべきものだというビジョンであった。(柄谷行人の最初の説で言えばそれは円経済の10%である)つまりそれは、Qが具体的によく流通するような世の中になったとしても、Qの担うべき部分というのは、生活的な必需品の部分を中心とすべきものである。それは食費とか家賃とか生活にとって最低限換えがたい部分。人間の基本的な人権ともいえる生存権の部分である。それ以外の人間的生活の部分、例えば、遊興費や飲み代、といった部分については円で稼いで円でペイし続けて全く構わないのである。むしろ資本主義的に発明や生産がリードしうる部分というのは、ちゃんと資本主義的で自由主義的に、剰余の見返りが確実に期待できる部分として、社会の全体的システムとしては残しておく必要がある。

5.
しかし今となってみればだが、柄谷行人の最初に唱えた全経済の10%の侵食説というのもあれは一体何だったのかと思うくらいに疑わしいものだ。経済の10%の次元に地域通貨なり対抗通貨なり市民通貨なりが食い込んでくれば世界は劇的に変わると柄谷は語っていたのだが、しかしその「10%」という数字の根拠は何処から来るものだったのだろうか?今となってはあの台詞はただの思いつきか山勘で喋っていたようにしか思えない数値である。

何かその10%に正確な経済学的根拠があるのだろうか?あったのならば今からでもその根拠を提示してほしいものだ。大変に興味深い数値の計算だ。そして何故あのとき、横では浅田彰西部忠岡崎乾二郎もその数値の根拠について問い返さなかったのだろうか?紀伊国屋ホールの壇上で。あるいはMLの中で。あの新通貨幻想の啓蒙過程についてである。