隠喩としてのletsⅣ

地域通貨のことを別名でエコマネーというように、地域通貨の機能とは、それを担う主体の道徳的でエコロジー的な意識によって運営が任されるというのが本願であり、その機能的な本質なのである。つまりそれは一般的経済の次元とは、相当に位相を最初から異にしているものだ。地域通貨(エコマネー)とは一般の資本主義経済と比べれば、それは人間の顔をした経済であるということになる。しかし人間の顔をした経済とは、それはどんなものであるのだろうか?それはそもそも経済の名に値する範疇にさえいられるのだろうか。実際にそのような交換システムが人間の顔を実現しているのか否かという問題は別にしても、人間的を自称する経済とはどうしても妙にならざるえないものがあるのだろう。なぜならそれが人間的であるということは、人間的な意識によって経済の現象がコントロールしうることを意味してしまうからだ。人間的であることを自称することは理想的であることを意味することでもある。(理念的であること)しかしこれが経済という現象と絶対的に矛盾を来たしてしまうメカニズムというのは、経済というのは意識的というよりも無意識的な次元にその流れを負う部分が多いからである。経済にはもちろんその意識的な運営の部分と(すぐれてそれは国家的で計画的でコントロール的な部分)どうしても絶対的に無意識的に任せざるを得ない部分(自然現象としての経済の流れ、自己増殖)の二つのモメントを持っている。

経済における現実的なものとは意識の部分を上回りそれを先行する、はみ出してしまうような部分である。人間的で理想的であることを自称するシステムとは、そのような経済の現実的次元には肉薄して着いていくことは最初から出来ないだろう。経済は意識的で理想的なものが主体となって動く生き物では決してありえず、むしろいつもそれは無意識的でアナーキーに拡散しては移動することをこそ、特徴とするのだから。 そのときそういう無意識的な経済の動きの原動性として実在しているのは欲望という次元であり、人間の人間的な欲望の流れについて見たときに、欲望には顔がないのと同時に、そこで法則的に機能しうる掟の次元とは、心理学的な次元である。すぐれて人間的欲望とはそして集団心理学にこそ基づいている。だから無意識的な欲望の動向とその表象としての経済現象といったところで、別に特別それは予測不可能な次元ということでもない。ただ少なくともそのような無意識かつ欲望的な人間性の動向とは、理想的なものではありえないということは確かであるのだろう。それは理想にサブジェクトして従いうるような軌道では全くなくって、むしろマーフィーの法則のような、あるいは否定神学的なパフォーマティブとして、常に無意味にも裏をかきたがるような素振りさえしてみせる、強情で我侭な人間性の部分であるのだ。

NAMで構想されて発足されたQについても、実際の内容とは、このような『理想通貨』といった範疇のものである。そしてQシステムの原型とはLETSシステムに基づく。しかし彼らの思惑とは異なり、実際には海外でも、地域通貨の理想主義的な側面を原理化しようとしたLETSの運営の実態については、ほぼ壊滅状態にあるのだという。辛うじてLETSが生き残っているとしてもそれはディープエコロジストのコミュニティであるそうだ。LETSは生産と消費の農業的な部分に根差すことによって機能を持続している事情になっている。けれどもこれはLETSシステムの最初から持つ、本質的なる形而上性に全く基づく結果なのだ。だからどの道をとってもLETSを選択して取ることはこのような理想的であるが形而上的なる人間主義経済に陥らざるえないものだ。そしてそれはいわば共産主義国家の計画経済のシステムが辿った道筋を再生産する事情にも似ている。故に最後までLETSの残党として残りうる人々というのも、実際にはディープエコに見られるような、オカルト的信仰の傾向といっても過言ではないような人達、最初から現実を見ることも苦手な、あるいはそんな積もりさえも欠如しうる、都会的現実を見ることも不可能な宗教的人間たちにすぎなかったというのは、必然的で当然のLETS的末路であったのだ。

だからQのシステムに間違いがあるのだとしても、それはQがなにも非人間的だから起きているのではない。逆にそれは人間的なものを自称しているからこそ、間違っているのだろう。Qは実質的な経済システムとしては機能しえずに、ただのあるレベルの人間達の文化的な交流サロンとしてしかの意味を持たないだろうに見える。それはQのシステムが原理的に内包しているのが「人間的なもの」にすぎずそれが「理想的なもの」であるからなのだ。つまりQは、一定の文化的を自称する人々の交流のための出会い系サイトにはじまり、そういう文化的なサークルの外には出れないのだろう。つまり経済的な次元には変身することはない。最後まで文化的で人間的で理想的な顔をした似非の経済ダミーに止まる。故にそれは資本主義経済を脱構築することもない。ただの疎外された人達の癒し系サークルにとどまる。

それに比べれば、ネットを使って顔の見えないコミュニケーションの倫理的な実現を売り物にしていたQに対しては、実は元祖LETSのほうがまだはるかによく現実的に経済としては機能するものだろう。何故なら実際のLETSというのは元々からして、顔をよく知りうる現実的かつ内輪的な人間たちの仲間的サークルがベースになっているものであり、更にはそのような人間たちの共同体とは、ヒッピー系の人間たちの、生活のための切実な必然にも捉えられた現実の具体的生活に最初から根ざしている交換・通貨のシステムであったのだから。少なくともそのような具体的な生活共同体には交換と流通の場面におけるスピードが実在している。そこには妙にして奇なる必要以上の理論も小難しい哲学もないし、いらない。(もちろんそれは具体的に顔の見える人間たちの具体的な生活的状況に根ざした交流の世界である。)そして更にそこで具体的な条件をあげれば、そのようなLETS共同体の構成員が資本主義的な雇用関係からは絶対的に追い払われているということ。だから彼らは資本主義に自己を妥協させることなく、ヒッピー的にさまよい出てきては、自然に道徳的共同体を構成したのである。