隠喩としてのletsⅢ

1.
経済の一般にとって「道徳的経済」というのがありえるのだとしたらば、それはどのようなものでありえるのだろうか。また道徳的経済あるいは倫理的経済と命名したところで、それを一般的な資本主義経済から区別できるものとはなんなのだろうか。道徳的に経済が構成しうるということは人間の意識的なレベルによって経済活動のコントロールが可能であると考えられることにも等しい。それは歴史的にはいわゆる「計画経済」という概念であって、1917年にロシア革命によってソビエト連邦が登場し、共産主義国家の経済政策として、そのような計画経済という方法論は模索されたものだった。計画経済とは人間主義経済なのか?まあそんなようなものだろう。

もちろん資本主義経済自体の成り立ちも組成としては実際には道徳的なものだ。日本の資本主義的な社会の生産体制の中でみても、基本的にそれは道徳的な秩序が前提として構成されているものであるから、そこには秩序と平和はあるのだ。それがどのような種類の道徳であるのかというところで常に問題を孕んでいることはやむをえないにしても、基本的に経済活動が経済として成り立っている場面というのは、まずそこには取引の一般的ルールとそれを保守するための道徳というのが機能している。道徳的な基礎のないものはそもそもシステム化もできないものだ。交換と流通の流れ自体が生じることができないだろう。そのような無秩序な社会状態とは空爆の最中のイラクの町並みのようなものだ。

しかし社会とはその社会体自体に内在される本能的な欲動のようなものとしても、道徳欲動なる次元、おのずから自らの安定性とホメオスタシスを構成しようとする、盲目的でもあるのだけれども非常に正確な、生の本能にも近いものをもっている。個々の様々なる別々の交換が次第に綜合されていく過程、統合化されていってそれらが一般的経済という社会的で共通の土俵を持ち始めるという現象とは、それによって同時に社会が安定化して見通しがよくなっていくプロセスでもあるのだ。だからそもそも「経済」というのは何なのかといえば、それは合理的なる計算可能性のこと指すのだろうし、それはそのような社会的な計算可能性の幅が拡大し自己増殖していく過程であるはずだ。

物々交換の段階というのを経済的交換における原始的な基礎と考えて、それら交換の束が社会化されて共同化されていくプロセスにおいて、一般的抽象物としての計量的尺度としての貨幣形態が登場する。最初の一般的価値形態の表象的代行物として取られうる自然貨幣とは、物質的な対象としては、まず米であったり、麦であったり、絹や布であったりする。それらはいずれも日用的な汎用品であるが故に、交換可能な一般物として見なされるものだ。

自然通貨の形態とは、しかしそれとは逆に、金、銀、宝石などの希少品であるが故に高価な価値をもちうる物質が担わされるケースもある。それらは希少で貴重であるが故に、富や権力の象徴的指標となりうるのだ。社会の原始的な段階においては、権力者や貴族にあたる人々の富の集積のシンボルとは金や銀の貴重品であり、庶民的な衆のレベルにおいては、通貨とは、日常的汎用品が一般的交換媒体として担っていた。それらはいずれも自然発生的な物質的代用物であるが故に「自然通貨」といったカテゴリーにあたる。金や銀が交換の媒体になるような場面があるとして、そのようなものは、共同体と共同体の間の、国と国の間の象徴的な取引の場面などであるのだろう。

2.
共同体間の交易にとって、交通の集積点ののような地域的なポイントには、市場が発生する。市場都市のようなものが、それとして交通の盛んなポイントには出来上がるのだ。市場内の取引においては、各市場の独自のルールとして、その市場の通貨というのが独自に発行されていた。まず取引をしたい商人や交易者たちは、一定のそれら市場の独自通貨と彼らの品物を交換した上で、市場の中の交換取引に参加することができる。そのような場面では、既に、特殊な市場的共同体の発行としての通貨という形態が出来上がっている。大体それらは石を共通の小柄な形に加工したもので、使いやすくされていて、貨幣を保証する印が打たれている。あるいは市場都市では紙幣の形態も独自に発行されていただろう。(今でもシルクロード上にある各々の市場都市の跡地などを見ると、そこの市場で大昔に使用されていた通貨の形態などが博物館的に残されているのを見ることはできるものだ。)

通貨を代行する物質として、米、麦、絹などの自然物質を介さずして、独自に専用の貨幣を鋳造するという形式は、そのような交易上のポイントにあった市場都市に起源があるのだろう。一般的等価物としての自覚的な貨幣の鋳造とは、その後は国家の管理するものとなってくる。

いったい何がそれを生活する普通の人々にとって、貨幣だと決めさせるのだろうか。貨幣が貨幣たるゆえんとは、慣習的なものである。何故それが一般的なものとして流通しているのかと問えば、なぜなら慣習的にそれがそうだから、という事情になる。我々が実際にいま使っている通貨とは、殆どの場合において、円やドルなど、それらは国家の管理して発行する国民通貨である。国民通貨というからにはそれらの通貨の価値を基礎付けている体系とは国民経済である。我々にとって実際に使用するにたる日常通貨とは多くの場合においてこれら国民通貨である。世界の一般的経済とは国民通貨を前提にし軸とし組み立てられている。そして地域通貨運動の起こってきた背景というのは、これら国民通貨の流通ではカバー仕切れない、我々の生活および経済的場面というのを、何か別のやり方でカバーできないかというものである。

こういったものが新しく興ってきた地域通貨運動の前提でもあるのだが、地域通貨運動とは、国の行政としてもその機能に着目されていて導入、研究は進んでいるものだ。それら地域通貨とはいわゆる「エコマネー」ともいう。一般的でメインの資本主義経済ではカバーできない領域について(それらはいわゆる人間的−領域でもあるのだろうが)、行政の単位のレベルで(国やあるいは地方公共体)、エコロジカルに、補正的な予算を導入することはできないだろうかというものである。地域通貨運動の実践は、日本よりも以前から、ヨーロッパ、スイスなど、あるいはニュージーランドアメリカの一部などで、既に実証済みでもある。地域通貨が実際に一定レベルの成功を収めて、日常的で市民的経済として機能している場所もすでに多くある。