隠喩としてのletsⅡ

1.
地域通貨の思想家としての顔ももつ童話作家で有名なミハエル・エンデは、地域通貨とは「なんでもできる魔法のお金」だという自説を語った。もちろんエンデという人物の系譜を辿ればわかるように、エンデの出てきているのはドイツでもシュタイナー系の神秘主義サークルの系譜である。つまりエンデがそのように地域通貨論を語るときに、彼のような人物がもつそのような特徴的な前提を抜きには見てはいけない。シュタイナー系のオカルティズムとはそのままアメリカやヨーロッパのヒッピー主義的な思想の流れに合流している。それは資本主義批判や文明批判であるのと同時に、旺盛なる実践性も伴い、宗教的な共同体の形成の思想に関与している。資本主義を批判することによって都会的なものや物質主義文明を否定し、脱出し、自然主義的な宗教的共同性をコミューンとして実現させようとする思想の流れである。今でもいわゆるエコロジー系というときには、60年代のヒッピー・ムーブメントを起源にもつところのこのようなスピリチュアリズム系のサークルと思想の流れとは切り離せない、浸透したものになっているものだ。しかし西部忠によって書かれた地域通貨の歴史には、このヒッピー主義系の共同体の地域通貨への貢献というのが全く抜け落ちていたものだったのだ。

西部忠はNAMでQという新通貨のシステムを開発して命名するにあたってこう語っていた。これはエンデはなく(円ではなく)、Q(球)である、という意味である。「なんでもできる魔法のお金」とはそれ自体でオカルト的な発想である。しかしこのような発想とはエンデのような人物にとって別に冗談でもないのだ。おとぎ話のようにしてそう語ってみせる(実際エンデはおとぎ話の世界的な専門家であるが)エンデとはもともと神秘主義系のヒューマニズム思想が前提となっている人物であり、特にドイツ神秘主義としてその流れはドイツ人にとっては歴史的な命脈を保ってきたものである。「シュタイナー教育」に代表的に示されるように、ドイツ系のそのようなオカルティズム、宗教性というのは実践主義的にもよく完成された共同体の系譜をもっている。歴史的には反資本主義の思想および人間たちの共同体の流れとはなにもマルクス主義的に唯物論化されたものだけではない。

しかし柄谷行人西部忠によって着目されたこのようなオカルトサークルの思想性の地域通貨の共同体というのは、そこをマルクス主義的に、唯物的に改造化させてやれないかという発明的な素材として見られたのである。エンデ的には、地域通貨の思想で見れば、人間とは生まれながらにして実は本当は、無限のお金を持っている、ということになる。だから地域通貨的に考えれば、お金の持っていない人など存在しない、ということになる。

2.
柄谷行人はエンデのようなタイプの人物の胡散臭さを言うのとの同時に、しかしエンデのもっている貨幣についての妙な超越的な発想というのをラディカルだと考えたのだ。「なんでもできる魔法のお金」とはそのまま唯物論的な社会機械のメカニズムとして発明しなおせないかという発想がうまれる。そこにマルクス資本論を延長として接木できないものかと。それが革命通貨、左翼通貨、対抗通貨としての新通貨システムの構想に発展する。革命の真の実現とは、あらゆる社会問題を統覚的に(統一的に)抽象化しうる新通貨システムの実現と不可分なのだと考えられ始める。それは資本主義システムを真に止揚しうるだろう。貨幣の発行とは今まで、近代の歴史以来、ずっと国家のシステムによって独占されてきたものだったのだ。そして貨幣とはすなわち国家の発行するものであるという思い込みが定着してしまっている。国家の発行する国民通貨とはそのまま国家の付与する信用の体系である。この信用の体系と貨幣の発行権というのを、そのまま人民の手に取り戻してやることはできないものなのだろうか。それができればそれこそ真の革命であり真のコミュニズムを実現できるだろう。コミュニズムとは可能なるコミュニズムであったのだ、という流れになる。マルクス資本論解釈の最終段階とは通貨ゲームの実践運動という次元へと向かったのだ。

地域通貨マルクス主義的な再発明にあたってNAMで着目され前提となったシステムとはLETSというものである。これは80年代にカナダのバンクーバー島でマイケル・リントンという人物によって実践されて一定の成功を収めた(とあくまでも一部で云われている)地域通貨のシステムである。リントンはこれで通貨の決済システムをICカードに収めることによって合理化したものだった。リントンとは元は、自らはマッサージの労働で他者にサービスを与えることからはじめて、このLETSシステムを一定の規模にまで普及させたのだという。そして元はリントン自身がヒッピーであったのだ。

3.
様々なる社会問題の次元について、そこに一定の抽象力としての光を投げかけて与えることによって、それらを大きな一大、対抗運動へと統合化して導けるような運動の力。それを貨幣という一般的交換媒体の力によって担わせようとNAMでは考えられていたわけだ。貨幣の発明とは限りなく抽象的な作業であるのと同時に、交換的な関係の前に、あらゆる具体的な物の次元を立たせることを可能にもするだろう。交換の対象となりうる可能なる物の在り方というのは、なにも規制の商品生産物の中でだけ考える必要もないのだ。むしろ交換の次元を抽象化していくことによって、あらゆるものが交換的対象に考えることが可能になる。今までは日の目に当たらなかったシャドウワーク、道徳的労働、ボランティアのようなものにも交換の評価とそれに見合った量的な報酬を与えることが可能になるはずだ。

これによって道徳的な営みというのが、単に抽象的な善意や宗教的な善行にすぎなかった段階から解放されて、それ自体が具体的な実体を伴った社会的な金銭的報酬へと変身することができるようになる。そしてこれこそが資本主義的な非人間的な労働に対抗する手段、武器となりえて、真に疎外された労働の次元を止揚、克服することを可能にするだろう。新しい貨幣といってもそれは必ずしも、硬貨や紙幣のように具体物の姿をとる必要もない。コンピューターやインターネットの力を使って、純粋に帳簿的な決済の次元だけの交換システムを開発することは可能であるはずだ。そのような発想の経過からNAMでは発明すべき新通貨の土台的な前提となりうる先行のシステムとしてマイケル・リントンのLETSを理論的萌芽として取り入れたのである。

実際このLETSのシステムにとって、交換対象としての商品の次元というのは、個人にとっては発明的なものになることが可能になる。円やドルではすぐにはとても商品にはならないような、他人に対するサービスを、それを受け取る他人に向けて、すぐさま対価として要求すればいいのだ。LETSにおいて基本的な発行権というのは個人にあるのだから。個人は最初にLETSのためのICカードを受け取るときに、同時に最初に自分自身が発行可能な貨幣額の赤字上限も定められて受け取っている。そのICカードを一枚受け取れば、あとはもう何を商品としてLETSの会員としての他人の手に差し出そうと、すべては当事者間の自己決定事項となるのだ。これは資本主義の国民通貨のもとで為される経済よりも自由な経済である。

実際、地域通貨が理論的で意識的なものとなってきた歴史的な条件とは、資本主義の批判や国家の批判を前提とした自立的な共同主義であった。NAM系の地域通貨年表を見てもわかるように、それは元は社会主義者オーエンの労働証券、そしてゲゼルの考えたような自由貨幣としてのスタンプ貨幣である。スタンプ貨幣とはその都度の交換のための条件として純粋に限定的に用いられるために、交換がすぎればそれは自己消滅することのできる貨幣なのでスタンプ貨幣という。それは純粋な交換行為のためにしか使用できないので、資本の発生の前提となる価値の貯蔵手段としての貨幣の機能を排除できるとゲゼルによっては考えられたのだ。

4.
それではそのような特殊ではあるけれども自由な経済というのを必要として実際にそのような共同体を作り上げている人達というのは、どのような人達であったのかという事情も問題になるだろう。一般的な資本主義社会からは世捨て人のように遠ざかり、かつ宗教的な信仰心からその付随物としてのオカルト的性向、神秘主義的な行動様式まで失っていない人達の流れとは、左翼的な活動家連であるとしてもまだ宗教的な志向の残る人達であるのだろうし、現実にはヒッピームーブメントの衰退以後の、それらヒッピー達の人間の流れを、カルト集団の組織とは異なったやり方で、それら地域通貨共同体が引き受けていたという事情である。