隠喩としてのlets

1.
しかし、そもそも現実に機能しうる通貨とは「象徴的なもの」でありえるのだろうか?そこには疑問があるだろう。円やドル、基本的に資本主義としてよく完成された国家の通貨というのは現在では一定安定的なものであり、日々機能もしている。しかしそのような安定性の地平を一定実現できている社会的機械としての通貨の次元というのには、なにか象徴的なものが入っているのだろうか?

一般的に使用される日常通貨としての国民通貨の次元と比べて、地域通貨というのはむしろ象徴的なものである。いろんな種類の地域通貨があるのだとして、そこの特徴というのは、何か象徴的なものが、理念的な意味としても込められているといったものを積極的に担うことになる。むしろ通貨が実際に社会的流通の中で洗練されながら、その通貨自体の実在の次元というのに純粋化されるとき、そこには一切の象徴的なる次元というのは洗い流されてしまうものではないのだろうか。つまりそこでは、象徴的なもの、理念的なもの、意味としての重み的なものというのは、流通の進化して高度化していくプロセスで最大限に洗い流されてしまう。通貨が通貨として合理的であるというのは、純粋にその機能的なものに徹していくことの中にあると考えられるものだ。

2.
通貨とは、一般化されたものとして流通の量と機能的な合理化、高度化を増すことによって、それ自体の意味とは逆にどんどん希薄化するのだろう。つまり、通貨にとって、意味なり、象徴性なり理念なり重みなりが担わされている段階というのは、まだそれが社会的流通にとって原始的な段階のなのだ。通貨というのは流通の高度化とともにより一般的な次元にニュートラルに近づいていく。より社会体の中で通貨の実在性というのは透明なものに近づいていくのだ。しかし通貨の透明性といってもそれはあくまでも、限りなく透明に近い、といったレベルのものであって、透明なように見えても、底にはやはりそれが社会的な実在通貨であるが故の、一定の不透明性というのは残存するものではあるはずだ。

円には何か内在的なる象徴性が実在しているのだろうか?ドルには象徴性が実在しているのだろうか?しかし円とドルの間に何かそういう象徴的で理念的な次元での差異があるとも思われないものだ。強いて言えば円とドルの間の差異とは、株式市場の動向によって決定される(そして日々変動しうる)交換比率の差異、経済的な決定力の重さとしての差異があるだけのようにも見える。つまり貨幣とはそれが機能的に純粋化される段階に従って、意味的、理念的な内容というのは消失していく性質を持っている。一般的経済のシステムにとって中心的に必要とされているのは、そのような一般的であるが故に、出来る限りの無表情な通貨なのである。

3.
地域通貨というのは、それが一般的経済のメインの次元、つまり資本主義経済自身の補正予算としての、修正機能としての役割を考えられている限りにおいては、それはよく機能しうるのだろう。少なくともそのような形式で導入される地域通貨とは、それ自身の意味としては、出来る限り無表情で可能な限り透明になろうとすることができる。そのようなものであるからこそ、こまめなる補助的機能としては、地域通貨はよく働くことができるのだ。しかしそれが一転して、何か理念的な意味を担わされようとする地域通貨とは(特にマイケル・リントンが最初に開発したようなLETSのようなシステムとか)、常にその使用と流通の場面において、特殊な意味付けや特殊な機能が帯びさせられようとするものである。少なくともそのような理念的意味を流通の次元に挿入させることを意図とするものだ。(たとえばそれは「平和通貨」であるのだとか。戦争をボイコットするための通貨であるのだとか)もし戦争をボイコットするための特殊通貨が(それの名称は対抗通貨というのか、市民通貨というのか、LETSというのかまだ決められないが)社会的な流通を実現するような状況というのを考えてみるとしたならば。それは国家間で行われるという戦争についての被害が、当該の国家内にとって、あるいはそれが世界的な現象としても、深刻に被害をもたらしているような、ある種、終末論的な状況を迎えているときであるはずだ。

たとえそのような終末論的で壊滅的な状況の中で、一定特殊なる意味付けの理念通貨なるものが流通に成功し、経済圏を実現したとしても、それは社会の危機的な局面における、あくまでも限定的な特殊なシチュエーションのみに基づくものであり、危機を社会が回避して回復し、また一定の平和的で安定的な秩序が到来したのならば、一時期の理念通貨としての特殊通貨というのも、また再び社会の一般性に呼応してはそれはニュートラルに溶け込み、特別に過剰な意味の削ぎ落とされた普通通貨へと戻っていくはずだろう。

恐慌時に特殊な地域通貨あるいはLETS共産主義的な通貨性というのが、流通して経済圏をつくるとしても、それは貨幣の一般的な性質の本性としては、どのような状況下であろうと、貨幣の貨幣たるゆえんとしては、できるだけそこのシチュエーションに習って、ニュートラル・中性的で透明な存在へと近づくことであるはずだ。それが貨幣の生き物としての生態であり性質である。そういう意味では貨幣とはカメレオンのような動物性を、内在的な原理性として備えているともいえるのだ。故に、貨幣自体には、常に過剰な幻想、過剰な期待というのは、本当は担わせることは不可能なものなのだ。むしろ煽られた理念通貨、理想通貨、LETSの結果として出てくる現象としては、貨幣に対する過剰な幻想と期待が忘れられない人々による、様々なる地域通貨カルト、地域通貨廃人の出現といったものになるであろう。