貨幣の中には顔があるのか?

インドの紙幣にはガンジー肖像画が刷り込まれている。しかし紙幣に人物の肖像画が刷り込まれるとはどのような事情を意味しているのだろうか。果たして、貨幣の中には顔があるのか?貨幣にとってそのような事とは可能な事情なのだろうか?

貨幣の中に顔を見ることである。ガンジー大英帝国の植民地から独立後のインドにとって統合のシンボル的な存在になった。独立後ネルーの指揮をとるインドの国家体制はヒンズー教によって統一化政策がとられることになる。そしてガンジーが凶弾に倒れた後というのはその存在は神格化されて祀り上げられた。ガンジーはインド独立のヒーローであるだけでなく世界的にもシンボリックな存在となった。死後存在が共同体的に神格化されることによって象徴的な記号として機能しはじめるのはもちろん珍しいことではない。キリストやマホメットの神話にしても明らかにそのようなメカニズムとして増殖する社会機械へと完成していったのだから。

たとえばガンジーの自叙伝によると、ガンジー自身が自分の出自をヒンズーであると語っているのだが、しかしどうやら本当はガンジージャイナ教系であったのだろうとういう説は強い。ネルー以降のヒンズー教による統一化政策の中でガンジーは象徴的な記号として利用されるものとなったのだ。別にインドの国家は立派な軍隊をもっているし、カシミール問題をはじめとしてインドパキスタン戦争を経ているように戦争も頻繁なる国家である。日本のような平和主義憲法を実現したことがあるわけでもない。ヒマラヤ山系の問題においてはインドは中国とも軍事的な緊張関係にある。

イギリスを平和的に排除することの出来たインドにとって次に起こった問題とは、イスラム派とヒンズー派の対立抗争であった。イスラム派はパキスタンとして独立することになる。そしてパキスタンとは今では核爆弾保有国としての数少ない国家の数にも入っているほどに、戦争的な体制が緊迫している抗戦的な国家である。インドとパキスタンの間では核開発の実験において競合的な関係が生じているものだ。アフガニスタンタリバンのような組織の場合も、パキスタンイスラム原理主義派との連続性の中に登場したのだ。

つまりインドの貨幣の顔であるところのガンジーおよび非暴力、寛容の理念とは、単に象徴であるだけで、インドを巡る現実の事情としては、全く機能できないのだ。インドは四方八方を今でも戦争的なもの、暴力的な抗争によって現実には取り囲まれている国家である。アフガニスタンタリバンのような戦闘主義的な神学性というのも、そのようなインド周辺の歴史的な事情、歴史的な宗教性とは切り離せないものであるのだ。

そもそもアフガニスタンに70年代にソ連が侵攻したのは、アフガニスタン共産党政権を支援するためであり、その結果アメリカがそこに軍事介入する事情になったものだった。そのときはアメリカは共産党政権を許すよりもイスラム主義の政権を樹立させたのだ。そしてアフガニスタンイスラム派に見られる思想とはいたって復讐主義的な神学が根強かった。それは「復讐とは百年たった後からでも遅くはない」といった彼らのスローガンにも現れている。

現実の象徴性ガンジー主義の周辺とは、戦争と暴力的なもの、復讐主義的な社会機械によって張り巡らされている。逆にそのように日々の現実が戦争的で暴力的な抗争に取り囲まれたものであるだけに、貨幣の顔として最も象徴的な次元には、非暴力と祈念としての平和の映し絵を見ながら慰める、あるいは見えない未来に向けて主体化する−させる必要があるのだろう。これが現代インド社会の全体的なメカニズムでありバランスなのだ。