神学の記憶と新しい生

純粋に倫理という次元がそれ自体で機能するということはありえない。倫理とはいつも何か別のものに包まれている。しかし倫理とは神学的な前提の元でしかありえないということはない。むしろ倫理を神学的な前提の拘束から解放しうる思考の方が本当は新しい思考であるはずなのだ。

人は誰も見ていない場所でも何故善行をすることができるのだろう。それは他人が見ていないとしても神が見ているからだ、という言い聞かせ方がまずある。人が他人が監視していないところにおいても、善行を常にしうるようにプログラムしなければならない。だから神の視点の実在は必要なのである。これが大体、宗教家にとっての常套的な言い訳であるともいえるのだ。何故あなたは神の存在をそんなにも必要とするのか?何故人間には神が必要だといいうるのか、という解答として。

人間的な構造とはどうやら神学的な構造でもあるのだ。人間的な再帰的なる確認の形式というのは何らかの形での神学的な前提を呼び寄せる。しかしそれは至って恣意的なものであり曖昧なものであったりする。神学的で全体的な構造の前提を抜きには人は自分を人間として確認できない。---しかしこのロジック自体が回収装置ともいえるものだ。捕獲装置である。それは宗教的なもの自体のシスティマティックな自己強化、開き直りを意味する限りにおいて、むしろそれは悪質なものになるのだろう。

動物的と人間的を繋ぐラインとは神学的なものである。神学の消えた場所では人間性動物化として進行する。人間性とは動物的と人間的の間を揺れ動いている。この循環を統合化しうるのが神学的構造のもつ全体性だといえる。人間の自己超出性の構造自体が元々神学に起源を持つものだった。自己超出の構造とはそれ自体身体と精神のエロスの享受に関わる。extacyのメカニズムでもある。

宗教批判の唯物論的方法を経てこの神学的構造を引き受けたのが共産主義のシステムである。そこでは神学の中にあった概念は唯物論的にそれぞれ改造を施されたものだった。神学的構造とはモダニズムの上部構造としての推進のメカニズムだった。モダニズムとは社会の全体化、システム化に関わり、それ自体が資本主義の運動構造の中にある。資本主義、モダニズム、精神的上部構造としての宗教システムである。そのとき共産主義も宗教の代替物としての機能を果たしていたものにすぎない。

柄谷行人が、人間性を巡る宗教的構造の継承と再生産を二十一世紀にプログラムしたのだとして(それは人間の倫理的生産と宗教的な全体性の構造の再生産にあたる)受ければ、21世紀とはそれでは新宗教の時代になるということになってしまう。実際21世紀がそのような新宗教の時代になりうる可能性とは多分にある。(ビン・ラディンのアルカイーダの動きやそれのネガティブな類似的対応物としてのブッシュのような精神的=社会的機械のメカニズムの動きを見よ)しかしもしそのような時代に到来したからといってそれは本当はあくまでもネガティブな未来の到来となるだろう。宗教あるいは大文字の神学的タイトルのヴァリエーションとは、果たしてこれ以上世界に増やすべきものであるのか?

むしろ人間性の構造が神学的なものから逃げられない不可避性を持っているのだとすれば、資本主義の高度化自体が更なる神学性のミクロなる分散を実現している。実際、神学構造とは資本主義の侵出とともに我々の生活のミクロな場面にまで入り込む。それは性的な生活の次元においてよく観察できる。性的なものやセクシャリティの構造自体が神学的なものの類似物である。(それはエロス的快楽の享受の方法論としても、おのずから性的なものとは神学的構造と似てくる。)

個人のレベルでの性的なものが、生活の豊かさの向上、高度化によって解放されているのならば、神学的なエロスのメカニズムとはもはやそのような個人の性生活の中に入り込み、同時に昇華的な運動エネルギーの放出としては、個人の生活の健康を保障するものとしても定着している。そこでは神学の資本主義的な最終形態とは、個人の生活のレベルにおける性神学の実現であるということになる。

そして更にいえば、啓蒙主義自体の最終形態とは性啓蒙主義といったものになる。神学のレベルとはミクロに分散されることによって人間にとって解放的に自由に使用されるという社会形態になる。啓蒙主義と社会的装置との関係についていえば、それが発達したそもそものメカニズムとは啓蒙主義自体が社会的な性的装置として機能することによるものなのだ。啓蒙主義的行為とはそれ自体で挿入的な男根的行為となる。だから最後に啓蒙主義が生き残れる舞台とは性啓蒙主義という場面であるというのは、高度に資本主義化された社会にあっては当然の結末である。

神学的条件とは、資本主義と欲望の多様化・高度化によって、それは何も意識的なる導入がなくとも自然発生的に増殖し拡散し、我々の生活のミクロな部分にも入り込んできてはいつも既に貼り付いているものだ。なにもそこに意識的に増やしてやることによって更なる混乱なり更なる対立、排他、排除の形式をもたらす必要はない。少なくともそのような意識的導入とは結果としては倫理的には機能できない。

神学的条件とはこれからの未来においてはプラスとして考えるものではなく、マイナスとして見て行くべき条件であるはずなのだ。柄谷行人が図らずも行ってしまった行為の内容とは、高度化される社会に対して神学的条件をプラスによって考えるものであった。しかしそれは実際には倫理的に起動することはありえないだろう。神学的条件とは放っておいても社会では自ずから増殖しうる生殖性であるが故に(欲望の流れによって)、そこにはマイナスの思考で対処することのみが、具体的な倫理的な条件を実現しうる態度となる。

つまり「NAM」の記号とは、それは新しい帰依すべき神学的タイトルとして機能することは全くありえない。そのような神学構造とはもはやコミュニズムによって終わったのだ。NAMがたとえそのようなもとして生き残ったとしても、それは他の横にある時代の条件と全く同じに、カルト的な麻薬=麻痺物の現代社会的な要請、島宇宙の閉宇宙を必要とせざえるえない現代人の心理学的なメカニズムを条件として生き延びていくにすぎない。

NAMという記号が生きる条件とは単純に純粋な概念的操作としてのみある。だからそれは別に具体的な社会的組織体も伴わないし、対抗運動もボイコットも非暴力の名目的言い訳のガンジー主義さえも必要とはしない。それらは所詮、最初からメタファーとしてしか機能しないだろう。概念に求心的な磁場を与えるための構造論的配置を作る装置として置かれているのだ。

NAMを漢字で書かせる仕種とは南無である。それはこれ以上個人にとって行き場のない、南のあり得ない、逃げ場のない限界的な状況認識において、超越論的な操作としての、従う−subject、主体性の在り方というのを実現させる概念である。NAMは純粋な概念としてのみ生き残ることができるのだろう。そのとき確かにNAMと呟く仕種とは倫理的なものでありえるだろう。(MANを逆から読む仕種もNAMである。それは人間概念を転倒させる事によってNew Associationを為す。)