柄谷行人と宗教の意識

ところで、柄谷行人がNAMを起動するに当たって立件しようとした信条とは次のようなものであった。

1)宗教の実現なくしては、宗教は廃棄されない。
2)宗教の廃棄なくしては、宗教は実現されない。

このような条件によって成立させられるアンチノミーの存在が、今回NAMの存在の成り立ちにとって主要なものとなった根底的ロジックにあたっている。ここで宗教という語が頻繁に用いられるのは、資本主義、そして近代国家というものが宗教的であること、そして世界宗教─たとえばキリスト教ユダヤ教、そしてイスラム教─とマルクス主義とに構造上で共通点があるからだという筋になっていた。

しかしこの信条を構成した論理構造を見てもわかるように柄谷行人もまた、何かの漠然とした「超越論的なX」としての神学的意識を呼び寄せようとしているのだ。柄谷にとっても神学的意識とは、それは要請されてはいるのだけれども、いつも曖昧なものなのだ。しかしそれにしても何故、柄谷にとって神学的前提とはそんなにも必要とされているのだろうか。そこは実は疑問も大いに残る箇所だ。いったいそれは何のための「神学」なのか。「NAM」とはやはり、宗教と共産主義が終焉したところに、また再び世界に与えなおそうとした神学的な前提のタイトルであったのか。

マルクスの思考において、宗教批判とは宗教の拠って出てくる背景について、徹底的にその経済システム的で唯物論的な根拠を問い直すことによって、批判を加える。そして宗教の中に抱え込まれていた問題性というのを社会革命に向けて解決しなおそうとする。宗教を否定してマルクスがそのような主体性について新たに根拠を与えなおそうとするとき、コミュニズムというのをマルクスは前提条件として与えようとした。やっぱりマルクスにおいても、コミュニズムとは宗教なきあとの神学的前提としてまた引き継ぐものであったのだ。

そして共産主義的な神学性の条件とは世界史的なものである。未来の他者、普遍性といった条件が主体の「世界史的使命」として新たにサブジェクトすべき条件として考えられ、宗教の時と同じく、その代替物として与えなおされるといえるものだ。つまり宗教を否定するかに見える共産主義さえもやはりその機械的仕組みというのは、今までの歴史の中でも十分に宗教的でありえたという理由とはそこにある。

キリスト教でもユダヤ教的な伝統でも、本当の神の姿とは否定神学的な前提からいつもその「顔」については伏せられているのと同じように、新たにコミュニズムによって解釈されなおした、普遍性および未来の他者、というのも常にそれは顔のない他者の形式として提示されているのだ。これは20世紀の共産主義革命の運動の時代においても共産主義の全体性とはそのような仕組みであったのだし、柄谷行人が新たに与えなおしたNAMという名前の神学的な前提においても事情は全く変わっていなかった。つまりそれはいわば、普遍性神学、未来の他者神学といったものなのだ。

神学的な前提とは、社会の精神的な上部構造におけるモダニズムの推進力であり、社会の構成としての道徳的意識、市民的意識というのを、教育的で啓蒙的な効果として保障しようとするものである。そうであるが故に、それは近代化・モダニズムの原動力であったのだし、モダニズムと資本主義の発展とは宗教システムと常に相補的な関係に歴史の中でもある。神学的な前提をいまだにまだ必要としなければならないというのは、社会の全体的なシステム化についてまだこだわっているのと同じことだ。

それでは何故、柄谷がいまだにそのような「社会の再システム化」という次元に拘り続けるのか。あるいは社会の再システム化がやはり我々の生の前提として常に重要な課題であり続けているのだとしても、何故そのような作業を、主体性と神学的なものの関係の再生産によって行われなければならないのか、という柄谷行人への根本的意図、根本的動機への疑問というのはおこる。

しかし社会の再システム化(それは「革命的なもの」の次元にもあたる)というのはもはや「主体性」の力によっては起こせない。あるいは過剰なる主体性の力によってはそれは起こせないものである。社会的な物事を物質的に物理的なメカニズムとして変えるとは、信仰と主体性の力でもない。それが成熟社会および高度に資本主義化した社会における人間の条件である。

主体性の力によってそれを実行しようとすることは、常に主体化=義務化としての、人間にとっての義務的な条件というのを絶え間なく設定しては、与えなおしていかなければならないことになる。むしろ高度化された社会にとって再システム化を施すとは、直接的な主体への訴えの形式は迂回させることに効果がある。それは主体というよりもむしろ構造に訴えることになる。