隠喩としてのletsⅥ

1.
昨今の地域通貨運動のブームの中では、貨幣は複数ありえるという前提が生まれた。しかし本当にそうなのだろうか?そのような前提とは素直に真に受けてしまって大丈夫なのだろうか。そこには実は、再びまた別の角度からの疑問の余地もある。

ふと考えると
すでにそれぞれの主体は
自由に自由な方法で貨幣を発行している。
しかし その多くは 他の人間にとって
それが貨幣であると認知されえず、
あるいは認知されてもそれが貨幣であると認められず
受け取られない。
すべての人間が複数種の貨幣があることを
認知するだけの感受性と寛容さを持ちえれば
世界のおおくの不幸は解決するだろう
と夢見るのは私だけであろうか
岡崎乾二郎の詩)

2.
単純に言えば通貨の違いを条件付けるものとは、利子率の差異である。利子率が高くつくのか低いのか。あるいはそもそも利子が存在しないのか。あるいはマイナスの利子率によって、通貨を保存していること自体が意味をなさなくさせることによって、価値の保存手段としての貨幣の意味をなくそうとさせる。一般的な国家の国民通貨とは我々の普通の日常通貨の生態であるのだが、まずマイナスやゼロの利子率に相当するものは存在していない。(そもそもそのような通貨とは資本主義を否定する=自己増殖することの出来ない価値の通貨であるということになるのだが。また共産主義国の国家通貨であっても実際には利子率とは必ず存在している。何故なら利子のない通貨など、なんら経済活動への積極的な欲望、意欲を喚起できないからだ。)

この利子率に加えて、価値の保存手段としての貨幣の機能によって、自己増殖する資本的価値としての資本主義のメカニズムがうまれる。純粋にその時々の交換のための代替物という観点からすれば、そこに何の通貨を媒介として与えようがいいはずだ。貨幣の違いとは、価値の換算率にある。この労働で幾らの価値がつくのか?貨幣Aにおいてはこうであり貨幣Bにおいてはしかじかである。だからそのとき自分にとって一番得になる好都合な貨幣とはなんなのか、と問い返すことの中に貨幣の選択の意味は生じる。その他、貸付の方法論の違いのようなものでいえば、それは国民通貨としての一般通貨の使用においても、銀行の営業方針の差異のようなものに還元できるはずなのだ。それは日本の一般的な金融業の中にも、大手の銀行から中小の銀行、信用金庫から商工ファンドまでと、レベルの違いはある。

社会福祉的な成功例とみなされているバングラディッシュグラミン銀行のようなものでも、貸付の目的というのが国家的な貧困経済からの脱却というところにあるのだが、実際の営業の内容というのは、個々の貸付者へのカウンセリングの徹底というところにあるのであって、それで貧民たちのための国家通貨とは異なる特別通貨を導入せよなどというものとは、およそ異なる。グラミン銀行的な実践とは、あくまでも規制の安定通貨の枠内で、個々の貸付業務の質を向上させるといったものである。むしろだからこそバングラディッシュグラミン銀行は成功しているのであり、そこにおかしな冒険主義的な新通貨などを入れようものなら、たちまち機能が狂ってしまうだろう。

3.
貨幣は純粋な交換手段であると同時に、価値の貯蔵手段でもある。資本主義の資本主義的なる動機、欲望をアナーキーにも限りなく自由に喚起できる機能とは、その自己増殖して拡大する価値というメカニズムにある。欲望の自然からいえば、利子率が高い故に自己拡大性が強い通貨システムの状態の方が好まれるのは必然である。実際そのように身を任せる経済の流れというのは、価値のバブル的高騰の現象を生む。

経済の基本的メカニズムを通貨ゲームの中にあることを、再び別のやり方で捉え直す。地域通貨運動の次元というのが、社会改良、社会革命的な観点から取り組まれることになるのは、この通貨ゲームに改造を加えることによって、価値の再配分と新しい生産体制の条件を組み入れようとすることにある。通貨ゲームの再配分的な流れは、常に新しい生産の条件に向けて開かれているようにもしなければならない。新しい生産者がそこに常に参入しやすいようにオープンネスを求められる。常に貨幣と価値の計算は、流れておくようにしておくのと同時に、過剰な投機幻想的なバブルとして膨らまないようにさせる。バブル的な価値幻想の増殖とはそこに実体的な経済的生産を伴っていない。いい例なのは土地の値段が社会的な神話作用と化して自己膨張をはじめやすいことなどである。

通貨とは社会にとって複数あり得るという前提で考えていくと、新しい理想的な通貨の発明に成功すれば、利子生み資本としての資本主義通貨をボイコットすることによって、新たな平等で自由な経済生産のシステムを実現しうるという理論上の仮説も生まれる。しかしそのような理想通貨とは実際にはなかなか誰も使わない。運営上の壁にぶつかることになる。通貨が普通一般に通貨として現実に流通しているそのような一般性の根拠とは慣習的なものである。であるがゆえに理想通貨の導入運動とはその人間的慣習自体を変えようとすることを目指すことになる。しかし通貨の交換取引の次元に道徳的な動機を付加しようとすることは、通貨の流通速度に実際には無限の遅滞をもたらすものだ。NAM系では、Qシステムに失敗であると見切りをつけて次に考案されたのが「市民通貨」システムの構想であるのだが、それはポイントカードの使用をベースにして、円なり国民通貨、一般通貨の範囲内でのポイントバック=キャッシュバックの仕組みの中に、別の経済圏を作り出せないかと考えられていたものだ。

地域通貨の思想の重要性とは、貨幣をマルチユーザブルな変幻自在な特性において見ることができるということだった。しかしそこには新しい項としての新通貨像、理想通貨像をたてる必要もないし、どうやらそれはできない。無意味であるばかりか誤った幻影、妄想を社会に与えてしまうだろうということもはっきりしてきたのだ。つまり通貨ゲームとは、あくまでも規制の慣習的な通貨の中でのみ、おこなわれうる。そこで通貨は複数ありえると想像してしまうことは、実は具体的な経済的実体を構成している明瞭な部分というのを取り逃がしてしまうことにも繋がるだろう。

だから通貨とは複数ありうるとは本当は考えにくいこともあるはずだ。少なくとも本当に経済的実体を包含して機能している通貨とは限定しうる。現実の決定要因になっている通貨の次元とは唯物論的、機械論的には特定は可能であるのだろう。逆にそこに複数性のヴェールをかけてしまうことは経済的決定要因のmystification 誤魔化し、神秘化、神格化にも繋がる。マルクス的にそこは忠実に考えても。それではいま現在においてその決定的な機能を担う通貨とは何処に実在しているのかということになる。その通貨とは、円なのか、ドルなのか。

4.
マルクス資本論の中で、世界貨幣として、金のことをあげている。金とは微妙な価値表象物である。金は歴史的に見ても貨幣の評価基準として、近代から現代をへてもずっと機能してきている。そして実はいまだにこの金の価値の次元というのは世界的な経済の計量基準として別にその機能を失ってはいないのだ。金の本質とはそれが希少価値であること。希少価値の鉱物資源であるが故に金とは特権的な価値を代理表象してきた。

国際的な資本主義経済においては、一個の通貨の実在には、その上のメタレベルにはそれより力の実行性の強い通貨を仮定させる。最終的にはそのような決定力通貨の次元には、幾つかの最も勝っている先進資本主義国の国民通貨が残る。ドルであるのだとか円であるのだとかである。(たとえばフセインイラクの田舎でアメリカ兵に捕まったとき、フセインは秘密の穴倉の中で隠れながら傍らにはアメリカドルを大量に逃走用に持っていた。このときフセインイラクフセイン通貨を幾らもっていようと全く役には立たなかったのだ。フセイン自らも自覚しているようにイラク通貨よりもアメリカドルのほうがメタにあるのだ。)それでは円やドルの上には更にまたその上のメタ通貨があるのだろうか?実はそれらのメタには世界経済の構造から言ってもう一つのトリックがあるのだろう。国民通貨については、いつもそれらが金の公定価格との間に、経済状況の好不況に左右されながら、微妙にリンクされているという仕組みが歴史的に存在している。

しかし金とはただの希少鉱物資源であるというだけで、それ自体は別に国家の国民経済的生産には関与してはいない。(金が主要な産出物で輸出品であるような国家を除くが)それなのにこの金の次元というのが登場しうるという場面とは、いったいいかなるケースにあたるのだろうか。資本主義経済の不況期には必ず金の値段が高騰する。何故なら何処の国民通貨を買い占めてもっていても何処も信用ができないという状況になるからだ。そういうときにはあらゆる国民通貨の信用を超えて、金を持つことが、価値の確実な証として、世界的にも求められるのだ。これは歴史の中の慣習的な自然現象である。また自然な資本主義自身の修正機能でもある。恐慌時に貨幣価値を温存させるにはどのようにすればよいのかという社会的なメカニズムとして。もちろん国民通貨が現実に内包している価値の実体とは、経済的生産物の豊かさである。金という価値決定の次元が登場するのは、資本主義にとっては危機的で一時的な回避策にはすぎないものだが。金の次元というのが一時的な資本主義自身の危機回避の調整機能である。

展開としては、そのように通貨論自体が進化して考えられてくると、あくまでも一個の共通通貨、世界通貨の内部において、その落差としての新経済圏を作り出せないかと構想されるようになってくる。Qのときの理論では、Q自体およびQで購入された物品については円との交換や円への転売は禁止されていたが、その次の通貨システムにおいては、むしろそのような円やドルとの互換性とはもっと開かれたものになってくるはずだ。実践的な方法論とは、複数の通貨を使い分けようとするのはあくまでも方法的な身振りであって、それは結局はヴァーチャルな実際にそこにある、現実に機能をしている通貨の発見と働きかけへと繋がっていくように仕向けなければならない。それは決定因的な通貨のことである。つまりたとえ、通貨が複数あるように見えていたとしても、それらは現実的な経済決定権の次元に至るまでのプロセスであり、むしろ戦略的な配置なのだ。社会改造的な通貨ゲームとは、最終的には現実に対して本当に決定力のある通貨への解体作業へと向かう。経済的な実体を含有しているものとは決定因的な通貨であるのだ。

これがたとえば後進国の通貨(バングラディッシュでもスリランカの通貨でもよいのだが)とはその上位にいつも強力な通貨としての円やドルの想定をすることはできる。しかしだからといって後進国自体の内部での流通においては、バングラディッシュ内でもスリランカ内であっても、その国の経済的実体を握っているのは当地の通貨でしかないだろう。このときの逆転現象というのは、経済的実体を包含している通貨とは、むしろ国際的な価値決定ランクの低いほうの地元通貨であるという事情なのだ。バングラディッシュスリランカの通貨を円やドルの威力で一気に買い占めてしまうことはできる。権力的なやり方でもってそれは簡単にできるだろう。しかしだからといってバングラディッシュスリランカの経済的実体の内包というのは、円やドルのほうへ移行できるわけでは絶対にないのだ。

後進国でその国の現実的な経済実体を担っているのは、あくまでも地元の経済的な流通通貨の体系なのである。このとき弱い国の経済的実体は強い国の通貨によって一元的に包摂してしまうことは不可能なのだ。このように弱い国の立場で、地元の経済を、強権国家の支配影響から、防衛的に守るというのも、また通貨体系の重要な機能の一つでもある。そもそも元々の地域通貨の機能として考えられていたものとは、中央集権的な経済体制からいかにして地元の地方経済を守るのかというところにあるのだ。そしてそれこそが地域通貨の持つ最も現実的で重要な機能なのである。むしろそれが地域通貨運動の原点であったといえる。