マトリックス

マトリックスが君を見ている。…いつからか、気がつかない時から、誰かに僕らは見られている。個人としての行動を監視されているのだ。しかしそのような監視とはいつから始まっていたのだろう。たぶんネットに接続したときからだろうか?…あのとき掲示板に書き込みしたことが、そもそも誤りの始まりだったのだろうか…しかし誰が自分を見ているというのだろう…国家か、警察か、探偵か、調査員か?…恐ろしいのはそういうものとも関係なくて、もっと普通の顔つきの、いわば『名無し』の仮面を被った群れの中から、時々偏執的な情念が自分を矛先にして先鋭化して当てられているのを、あるとき突然発見する。出来る限りの没個性的な、名無しの仮面の、海の中から。監視のプロセスの最終段階とは、なによりも草の根的監視の完成であるのだから。

もう時代を振り返れば、インターネットの啓蒙時代とは、いったい何時の事だったろうか。確かにインターネットとは、いまだに進化の段階にあるメディアではあるのだろう。社会的にこれまであり得た、あらゆる物の姿が、情報というフィルターの元で、数値化され暗号化されてヴァーチャルな空間上に流れだす。社会的にありえるものとは、性欲や暴力の流れさえも、情報的数値に姿を変えて、無方向に流れ出させるにいたった。そこでは人間関係のあり方さえもが、情報的に数値化しうる。社会の中のありえるものとは、人間にとっての社会的な悪の次元さえもそうだ。というよりも人間的な悪こそが、このような欲望の惰性的な流れには、一番よく連動して、空間を占拠しにきては栄えるものだったのだ。

インターネット的自然とは、人間の社会的自然の姿を素直に映し出す。そして単なる鏡像にも止まらず、鏡像それ自体の乱反射の中から、アナーキーにそれ自体の次元と社会、世界像を生み出すに至った。インターネットとは、最初の導入からその正体が、なんとなく把握されるまでに、大した時間もかからなかったはずだ。最初のネット導入における知識人的論調というのも啓蒙口調の楽観的なものばかり多かったのだとしても、それは十年程度のうちに、一般のそれまであった社会のあり方と全く同じレベルのペシミズムが、一気に共有されるに至ったのだ。

マトリックス…それは数学的行列であり、子宮である。インターネットもまた何かの情報化の行列的な配置によって起動して我々の目の前に現れている。そしてそれが子宮であるというのならば、確かに妙な羊水の中にすべてのWEBサイトは浮かんでいる。母性的な自然としての受動性において、これら浮島のようなサイトは逃れることはできない。それは不気味な歯車の軋む影響関係の数々からも。確かにこれらは情報の流れで巻き起こされている、新しい自然の機械状連結なのだ。

我々の姿は、インターネットがここまで進化する以前の、我々の姿の様では、もはや位相も異なっている。可能な限り無数の行列的変換の網の目が、外で道を歩いている我々の姿さえも、事あるごとに捉えにやってくる。知らないうちに気がつかないうちに、もう我々はカメラに捕らえられている。あるいは誰かの密告者的な欲望に見つかっている。我々は実は、ネット社会以前よりもはるかに警戒的に道を歩かなければならなくなっただろう。

いつどこで、自分が石ころにでも躓いた姿が、もうそれは恣意的な情報として切り取られて、何処で流通をはじめるかわからない。いったんそれが物質的な情報の姿に還元されたとしたら、もうその情報は最初に生れ落ちたときの実体などは、全く気にも留めず、考慮もせずに勝手に浮遊しうる。情報は情報自体で一人歩きさえしうる。もはや最初の真偽のレベルさえが置いてきぼりをくらい、勝手にそれ自体で別の現実をつくりだしてしまう恐ろしい取り留めのつかない流れが、空間の中にはあるのだ。