身体性

インターネットの効用的なる結果としてもたらされた新しい監視社会とは、以前のものからどのように姿形を変えつつあるのだろう。デヴィッド・ライアンは『監視社会』の中でインターネットによってもたらされた監視社会化の現象が、「身体性の消滅」といった次元に深く関わることを指摘している。身体性の消滅とは遠隔コミュニケーションのシステムに必然的に付きまとうだろう、ある種の側面である。

テクノロジーの展開は、メディア環境をインフラとして整備するとともに、人間的現象の非身体化作用をもたらした。インターネットで交換される情報取引、そしてインターネットによって実現される人間関係の、それまでとは異なった位相の交流から構築とは、身体的痕跡を消去させることのできる性質をもつ。具体的な身体的挨拶や取り交わしのかわりに、そこでは絵文字のような種類の、抽象的で平板なメッセージの出し方が独自に発達をはじめた。

非身体化的な関係性の帰結としてデヴィッド・ライアンは、公的なものと私的なものの境界が無効化しはじめる、という。個人にとって固有なものと思われていたはずの私的な身体性は、個人のプライヴァシーという次元に深く関わっていた。もはやそれは神聖な性格も解体されて、普通の情報と並列され、等価の物質的条件として情報化され流出しはじめる。

無制限な個人性の解体状況にあたって、逆に社会体制の立場から、新たなる監視体制がプライヴァシーと個人主義、個人情報保護の観点から、問題として立てられるに至る。それは社会関係の非身体化によって持ち込まれた退廃性を、代償しようとする試みの中から、逆に監視システムが体制的に持ち上がるという、自由の保障からすればパラドキシカルな事態を示唆している。

彼の結論としては、インターネット・システムの様な物の中で、原痕跡の意義性とは消滅してしまう、進化したコミュニケーション機械において、ただスピードだけを増していく非人間的歯車の中では、それに対抗する手段というのは「個人の再身体化」にあたるということになっている。つまり、オンライン上で錯乱し、破裂し断片化した亡霊的な人間的身体像を回復させ、癒す次元というのは、オフラインでの具体的人間交流によるものでしかないということになっている。

顔の見えないコミュニケーションこそが、遠隔コミュニケーションの本質にあたっている。その無制限な散乱から、妄想の発生、狂気的錯乱への退廃に抵抗しうる根拠とは、顔の見えるコミュニケーション、具体的コミュニケーションの回復であるということになっている。そしてこれは解答としては、至って単純なものであるだろう。デヴィッド・ライアンは次のように、彼の結論部分を語っているものだ。

人間が生身の個人として理解される場所、抽象的コミュニケーションよりも面と向かっての関係が、自動的な類別化よりも正義が、そして、技術的な要請よりも共同の関係性が優先される場所、そこにこそ希望の強い兆しがある。
デヴィッド・ライアン 『監視社会』

デビッド・ライアンは、身体性の消滅とは、近代化の効果として現象したものだと語っている。しかしそこには、近代性の捉え方において、若干疑問の余地がある。モダニズムの機能とは、むしろ身体の具体化するプロセスに見ることもできる。

身体性とは近代的個人の成立にとって、主体的同一化の次元に関与する。だから近代化の機能とは身体性を、具体的なそれとして、個人に向けてわかりやすく提示させて確認させる必然性があるものだ。

それは個体が全体像と理想像に向かう可視的ビジョンへの、近代的な一定の信仰構成と相まる事だろう。だから身体性の消失、そして逆にヴァーチャル化した身体性のシミュレーショニズムとしての、独自の次元での錯綜した発達とは、モダニズム的体制が解体する時期の現象にこそ、起源を同じくしているはずだ。

遠隔コミュニケーションとは近代的信仰の観点からは、まだそれは人間性支配の領域拡大を予期させる期待の中にあった。それもまだ人間的未来性の範疇にある。遠隔コミュニケーションがテクノロジーの機械体系として、既成の人間性想像物を解体しはじめる、人間性自体とはむしろ対立するものになる、と考えられはじめるのは、むしろモダニズムが内在的限界性において破裂を自覚された地点、すなわちポストモダンの発生する認識の地平においてである。