コントロール

モダニズムの機能としての身体的具体化とは、同時に支配の具体性でもあった。既成の、そして理想の身体像を自覚化し具体化するプロセスとは、個体にとってディシプリンの技術を伴う。モダニズムとはディシプリンをプロセスとして媒介的に経させることによって、規定の具体的身体性に到達させよという考え方であった。規律訓練にまつわる信仰や強制、教育体制の消えたところで、それでもまだ残存することになる社会の中の監視体質や、権力的な抑圧性質のことを指して、それはポストディシプリンの性質であり、ポストフォーディズムにあたる、コントロール社会のシスティマティックな到来であるという事情になる。

前者のディシプリンを云ったのがフーコーで、後者のコントロールについて云ったのがドゥルーズである。ディシプリンモダニズムの孕む本質的機能だとすれば、コントロールとはポストモダニズムの支配体制である。コントロールが依拠する基準とは、社会の中に流通するフローとしてのコードであり、コード自身の孕んでいる内的欲求として抑圧を組織したがるメカニズムである。

この支配コードについて主体はいない。ディシプリンを管轄する中心とされた実体にも、既に中には人が入っていなかった。そこにあるのは消失点としての王のポジション、神の視線、中核主体の亡霊的構えだった。新しい権力支配現象としてのコントロールにおいても、空虚としての支配ポジションは更に存在していないものとなる。それは中央集権的な建築物メタファー(パノプチコン)というよりも、もっと変幻自在に、妄想にも具体性にも適宜に姿を変えては神出鬼没のすることのできる、純粋なコードの浮遊する体制なのだ。

支配=隷属形態としてのコントロールとは、特徴的に見れば、それが自由に投げ出すという表面的な法的形式とは裏腹に、実は内的に抑圧的なものを含んでいるということにある。それまでは強迫的に機能していた学校的教育体制や労働の隷属的形態というのは、過去のものであり非人間的な遺物として、社会から取り去らされることになった。それまで具体的で直接的なものとして、人間の身近に機能していた権力と支配は、社会体の成熟の証としても一時代前の過去のものとして廃止されることができる。

人間は本来自由なものであるという法律の形式的前提において寛容に放置されるのではあるが、そのとき支配形態とはむしろ抽象的なものとして、個人の周囲にはとり付きうるものとなるだろう。それは表面的、形式的には自由として与えられていても実質的な自由はないという、自由の達成度の中途半端なプロセスのことである。社会のこのような段階で支配的権力性の要として機能するものとは、コードの一人歩きして浮遊する生態によって立ち現れてくるコントロールの次元である。それは社会の形式的自由、形式的平等の表面のもとで、むしろ合法的に自由の領域に侵入し、ダブルバインドを実行し、それを病的に侵す腐敗現象として、現代社会に顕著に出てくる。

隷属形態それ自体の進化とは、具体的身体への介入、直接的な働きかけからは遠くなり、抽象的な支配形態で浮遊形態、間接的で代行的な権力干渉の形式、目に見えないが常に何処にでも姿かたちを変えて、偏在的に機能するものとなってくる。そこには具体的支配者の姿も、利益を剰余として巻き上げる主体も見えない。しかし純粋な抑圧から隷属、他人への隷属強制、そういう欲望として、意味も不明に、ただ抑圧することだけ、ただ人の足を引っ張ることだけを機械的目的に、浮遊するコード化作用になり、無制限なムラ的排他作用として、コントロール形式とは社会的に実在するに至るのだ。

本当は社会の歴史的な実現として与えられているはずの、自由であるという形式の中に入り込み、その形式的自由に貼り付く形で抑圧や悪、嫌がらせ、犯罪を忍び込ませ、自由の形式自体から抑圧的なシステムを生み出しているような現象を指して、社会の抑圧的な権力の現象のコントロールであるのだと考えるべきだろう。コントロールとは、形式的自由の中に忍び込み常にそれは形式的なダブルバインドを作り出しては、宙吊りや梯子外しのような遣り方により、倫理的なものや正義の次元を不可能にさせる、顔のない悪、顔のない欲望の姿として現象する。

社会の教育体制や支配体制が、一定解放的なものとなり、具体的な拘束や直接の働きかけによってそれが行われることからは、主に社会テクノロジーの進展によって進歩した段階で、このコントロール型の抑圧=支配の現象は顕著化する。形式的自由の前提でまず発達するのは、社会的な悪のこのような次元である。社会的な悪の欲望が内在的に発生し進化する。それは社会慣習の方法的な在り方に寄生して、欲動の自然な旺盛を究める。このような悪徳の栄えとしての技術論的な伝播とは、上からの支配的政策として起こるものではなく、むしろ社会の底辺的な一般大衆の底からくる自然な欲動現象として、社会の中でよく目立つ大きな動きとなる。

社会の自然な発展の過渡期として、いつも同時にミクロ犯罪的次元が伴い起こっている。このような非行性の現象、ミクロ犯罪の次元とは、それ自体取り締まりも難しい。嫌がらせや名誉毀損や犯罪的な側面も十分に伴っているものとはいえ、それはネガティブに法的な網目や人権的な自由の法的擁護の隙間を狙い、ブラインドを突いて出てくる悪徳の次元なので、大体そのような現象が一般化してからは、社会的行政的なセキュリティの次元の意識化によって実施の取締りが入るまでは、いつもしばらく時間がかかるものだ。

権力形態のサブリミナルとでもいえる次元の、無意識的な環境こそを好んでその現象は入り込み、ミクロな隷属性の自然拡散であり自然プログラミングとして、ウィルスのように伝染する。現代社会の底辺として偏在することになる抑圧、支配、隷属性の精神構造を孕むウィルスを、コード化という形式でもって、何処にでも侵入して体現することだろう。ゲームソフトの中にそれはある。テレビの番組の中にそのウィルスあるいはコード化作用は存在している。街で買われる雑誌の中にそれは既にある。ポルノグラフィ、風俗産業の企画ベースの中にそれはしっかりと張り付いている。インターネットの中にそれは流行している。

社会のスーパーパノプチコン化とはこのような作用としてある。これは誰か操作的な主体が仕掛けてそのような演出が完成するのではない。あくまでも大衆的で衆愚的な、底辺的で無意識的な欲望の動向として、集団心理の不気味な蠢きの中から支配的で隷属化的な現象が、底のほうから突き上げて流れ出している。

これは資本主義の悪完成としての一つの姿態でもある。誰が望んでこのような社会にしたのかは全くわからない。しかし明らかに自然で全体的な社会の流動現象としてスーパーパノプチコン化が起きているのだ。ディシプリンは高度資本主義社会においては何処の次元にあたるのだろう。別にディシプリン自体が消滅しているわけでは決してない。一部ではディシプリンとしての支配形態は原動力として、必ず生きている。しかし自由になりつつある社会では、具体的で直接的なディシプリンの支配性からは抜け出て解放されているはずの場所においても、まだこんどは、もっと目には見えにくい形式で隷属化現象、権力崇拝として、しっかりと形を変えて抽象的に生きている。しかもとても隠微なミクロな生態として。

高度化する過渡期の社会現象として、スーパーパノプチコン化とは、もはやディシプリンのレベルで組織されているものではなく、コントロールのコード化的抽象作用の結果として、テクノロジー機械の一部に寄生しつつ、遠隔的な垣根も飛び越えて実現されるものだ。顔のない、故に主体のない支配体制の完成性とはそこにあるのだろう。名無しで現れる無際限な動物的欲望の、解放と戯れの結果として、スーパームラ社会としてのミクロ抑圧の偏在化が、このようにして侵出度を増しているのが現状なのだ。スーパーパノプチコン化する社会の条件とは、テクノロジー機械とコントロールの次元の関係にある。