社会的な悪

悪の生態とは社会にとって、ある種の自然性に属する。社会にとっての悪の歴史とはいかなるものであろうか。善があれば悪が生ずる。いや、先に悪と不快が存在するから人間にとって社会的な善が求められる。そして社会的な善に対して主体化しうる人間の態度を指して、道徳という。

悪にも歴史があるものだ。最初に漠然とした人間共同体にとって、そこにはいつもうまく統治できるため秩序が求められた。人間が猿の集団から進化した理由とは何か。意識と、それを等価に担う言語の獲得と発達である。意識の獲得は、快の欲求を快それ自体のための目的として発達させることができるのと同時に、不快それ自体をも何物かの目的化として展開させえたのである。

猿の共同体にはまだ明瞭な悪はない。しかしそれが人間的に進化した共同体になると、悪とは明瞭な概念化、体系化を伴って存在し始める。同時に、悪を共同体と個々の生の持続に反する病気として退ける善の観念も、共同体は獲得する。善の意識が言語によって記録され伝承の素材となると、そこには原始的な道徳哲学と共同体の連関として、宗教形態が生まれる。

人間の人間たる由縁が人間の人間的生活にあり、それは食物を摂取し活動をし睡眠し覚醒し性欲をもち性交をする。人間が人間として維持されるためには排泄物の処理を伴うように人間のゆくところ、彼らの通り道にはいつも悪の発生、悪の内在が伴うのだ。悪は人間とその共同体にとって、発生すると同時に排除し排泄もさせられる。悪自体の存在が共同体を前面に覆うような事態とは人間的共同体の維持にとってもありえないことだ。悪とはいつも共同体、社会機械の陰部に、ネガティブな生態によって隠微に湿り気とニオイを帯びながら実在するのだ。

何故、人間にとって悪が発生するのだろう。しかしどうやら悪とは人間の歴史にとって、いつも形を変えては住み着き、人間性の陰部としての一部でもあるのだから、それ自体が消滅することができるとも考えにくいものである。

そもそも一言で悪といっても、その生態は様々である。歴史の中でかつてあり得た極端な悪、極端な残忍さから、現代的な社会共同性の進化に伴う微妙なる悪、それ自体がテクニカルな悪まで、悪霊の姿というのも形を変えてきているのだ。悪とはそれ自体、社会的なものである。悪からその社会的な媒体を取り去っても何もない。悪は社会を媒体としてのみ棲みつき、栄えることの出来るとても人間的な現象なのだ。

社会にとって概ねの建前とは、表面的次元において、まず善である。善であることが目指され、社会的にプロパガンダされ、組織され教育されている。そのような社会の目に見える姿を指して体制的なものである。悪は日の当たる表舞台に対して、社会体の中では日陰として部分的に棲みつくものだ。悪の棲家とは社会体の中でもネガティブな部分にある。

悪自体とはいつも前提として、社会的なものに背景をもっている。悪は社会的にのみ生まれいずる。そして悪がどのような生態、どのような現象をとって現れ出るかは時代的なものである。時代の変遷に応じて、同じ本質としての悪の姿というのも様々な姿に形を変えている。

初期の近代化過程において、暴力的なものや差別的なものとは、比較的露骨に表出するものだった。規律訓練とは国家的な教育体制、軍隊の体制においても、そして労働現場や家族の生活の中でも、暴力を伴ってかつそれに対応する愛情さえも伴いながら、共同体の構成の身体的な画一化を実現させていた。暴力も国家的な統率と個人的なディシプリンの重要な手段であるような社会的過程では、それのまた裏面としての暴力的な人間関係の生態、差別の場面においても、また露骨な暴力性や差別性を帯びていた。暴力的な否定性が国家や宗教を媒介にした主体的なる規律訓練として一方では機能するのだが、同時にそのメンタリティは、集団心理的な差別性、民族的な差別性のような次元にも、人間の日常生活の次元では、影を落としている。

近代化段階の初期というのは、資本主義化の経済的な統率の野蛮さも伴いながら(そのような社会状態ではまだ闇市的な貨幣経済の流通も旺盛である)同時に人間生活の日常的な場面では差別や暴力の行使も露骨なものだ。暴力や差別が生活で露骨ということは、その頃の社会的なる悪の次元というのも、露骨に一般的な日常生活の隣にありうるような、そんな社会の状態である。しかし社会の整備化、経済的な安定をシステム的に経ることによって、社会的な日常生活というのは、一定安全で守られたものであることが、一般的に実現されるようになってくる。教育現場や労働現場などでももはや不条理に暴力が横行するようなこともなくなる。一般性と日常性の次元では社会的な管理体制が安定したものとして与えられるようになった。同時に市民生活というのも安定の時代を迎える。

そのような社会の段階になると、それまで露骨だった暴力性や差別性というのは一定影をひそめるようになると同時に、それらは社会的な悪の次元として、システムの中の日陰的な場所、陰部的な場所へと息をひそめながら生存するようになる。社会生活の表舞台からは公式のやり方で追放されることになった悪というのは、生態の場所を陰部的なところへ移すのだ。つまり悪の次元はなくなるというよりも、社会の全体的な自然の配分としても、居場所を移動する。

社会は経済的な発展を遂げるのと同時に安定し成熟期に向かう。しかし社会体自体に内在しているといえる、悪の部分へと表現が向かうことになる人間的欲動の屈折した部分とは、その表出先を、表面的で直接的な暴力の舞台から、もっと間接的で隠蔽的な社会の部分へと次第に移行させていくようになる。だから社会体の全体として考えれば、そこでは決して暴力的な欲動や差別性の部分が消滅しているのではなく、それらは別の形態へと移動しているだけなのだ。

社会的な悪の次元とは、常に一定の社会の整備、安定化とともに、表面的な舞台からは追い払われ消滅させられる宿命にある。しかしそれら屈折した社会的な起源をもつ悪欲動というのは、決して本当には消滅させられるわけではないだろう。居場所を移動し、もっと社会体の中で陰部といえる場所を求めて、表現の形態を変化させるのだ。悪および暴力性、差別性の欲動をなくすメカニズムとは、社会の全体的な構造として、そのような発生の原因となる抑圧のメカニズムのレベルを下げていくしか方法はない。しかしそれは社会体の無意識的ともいえる自然な部分に関わる全体構造なので、社会の意識的な力によって、すぐにでも何とかなるというような代物でもない。