悪の進化論

社会にとって近代以前には、暴力の生態とはどのように違ったのだろうか。もちろん人間のなす共同体の維持と暴力の関係はなんらかの形で常に機能していたのであり、暴力が何かの機能的な部品としての、共同体的な認証をへた明らかなものであることを根拠付けたもの、正当性を与えるものとは、宗教形態であり、絶対主義王制、封建制度である、というように権力形態の移行として存在した。

そこに近代化を経るということがそれ以前とは異なるようになる事情とは、暴力が公の体制にとって何のための暴力であるのか、法律的に根拠付けられるようになるということ。暴力が行使される場面では、常にそれが何のための暴力であるのかという理由が自己言及的に示せるようになって、全体的な生産体制を構築し統率するための、目的論的な規律訓練の体制ということがはっきりしてくることによる。

暴力の行使とはもはや感情的で動物的なものというよりも、人間的な行使、目的意識のはっきりとした暴力の全体的配分という社会構成を伴って現れることになる。規律訓練における目的論的全体体制にとって、そこに配分的計算によって割り当てられる個々の暴力の性質というのは、合理的で体系的な根拠を伴ったものとなる。

つまり公の体制を維持する観点からいえば、もはや暴力とは理性的で合理的なものになりうる。その社会的な反映や反動として、裏社会や生活の裏場面的なところで起きている、人々の差別性や動物的暴力、ヒステリーの発生についていえば、表の社会の体制的な矛盾を素直に表出するものであり、だからそれが不条理な暴力にみえてもその発生的メカニズムについて、何故そのような暴力が起きるのかという理由はわかりやすいものであったはずだ。

学校的な悪の自然な生態としてのイジメの現象というのは、日本では八〇年代に深刻な社会問題化されることによって、一斉に手のひらを返したようにセキュリティ的な対応が起こることになった。それでまでは、あれは子供たちの独自の、遊びの領域として、大人には不可侵の領域として考えられていた学校的なイジメという領域であった。

しかしそこで起こっている事象のメカニズムがどうやら一筋縄ではいかぬ、独自に発展し進化を遂げた世界だとしても、どうやらそれは悪としての底知れぬ厄介な技術的発展の、学校システムによって水平的に進行した伝播であることが発見され理解され始める。幾つかのセンセーショナルな子供たちの自殺事件の連続などを切欠に、それまでとは打って変わって、学校問題としてこれらイジメの領域世界への解明が入る。イジメは明らかな犯罪として社会的なセキュリティの導入が進み、警察や司法の介入もはじまる。

社会の進化過程では、このように新しく発生する悪の領域、悪の次元のテクニカルな世界の展開とは、現象のほうが先行し、そこに具体的で明瞭なセキュリティ、司法、警察権の介入がはじまるというのは、しばらくタイムラグがあるものだ。しかしこのようにして近代化の結果としての現代的な教育システムのはらむ問題(特に義務教育の領域で)には、社会にとっての新しいセキュリティと、教師など教育者および地域社会の相互を含む監視体制が、ある程度にはうまく入るに至ったのだ。

相変わらず義務教育システムの現代的な矛盾としての問題ははらみながらも(学級崩壊の問題など)、学校のシステムとは、以前よりはよくなった。一定の改善はすすみ、子供たちにとって選択の多様性や逃走線が用意されるうるようなシステムの多様性を実現できるようになった。

近代化の過程で、最初は社会的なる悪の次元が、日本人の日常生活の中や労働現場のような場所に露骨に出ていた、日本では戦後的に開かれた混乱のドサクサ、カオス的な体制の立ち上がりの中から、経済的な豊かさを勝ち取っていく過程とともに、日常生活や労働現場の中には、人権を巡る労働運動−社会運動の影響もあいまって、安定した一定の健全な過程を実現するのに成功した。

しかし労働現場や生活場面で消滅することになった悪の次元とは、その次に居場所を変えて、姿かたちも変え、それ自体がテクニカルで頭脳的に変貌し、学校のシステムの中で、その義務教育の建前から来る子供たちの封じ込めを利用した、独自に進化を遂げた新しい悪の次元を作り出したのだ。そして学校的イジメの現象というのも、一定その正体が明らかになるにつれて、社会はそこにセキュリティと監視の目をうまく導入することにも成功したのだ。これは社会が安定していくときの歴史的なストーリーである。

自然主義的な前提からいっても、社会体の全体にとってみれば、その社会にまだ不条理な抑圧を生み出すメカニズムが存在している限り、その社会体の中から悪の発生が消滅できるということは、ありえない。表面的に制度的な整備によって締め出された悪というのは、こんどは姿かたちをかえて、それ自体テクニカルに陰湿化した姿になって、社会体の中では隠微な部分というのに棲みつき、隠微な形式で栄えるようになる。共同体的なイジメの現象としての悪の表出は、まさにそのような現象だった。

社会体の進化の過渡期に現象する独特の、悪の屈折した生態だった。しかし近代主義的な学校の閉域、会社社会、労働現場の閉域から、社会体の進化と多様性の実現の観点からすれば、人々は解放されるようになってくる。それでは閉域で囲い込まれた陰部ばかりを棲み家にして渡り歩いてきた悪の次元というのは、次には何処に行くのだろうか。

社会の自然主義的な前提からすれば、まだ今現在の段階で社会的な抑圧のシステムおよびその副産物としての悪の発生が食い止められてなくなるわけがないものだ。学校や労働現場を追われた悪の人間的自然というのは、それでは次に何処の場所に棲みつく事情になるのであろうか。

自然主義的な悪の社会的次元が棲みつくことのできる、格好の隠れ家で居場所となったのが、インターネットだったのだといえる。子供たちは社会体の自由の達成度からいっても、もはや学校に強制的にいく必要もなくなった。そして会社社会のような経済システムにしても、以前のような強制度は薄れて、労働の形態もフレキシブルなものとなり、フリーターのように特別に身分を縛られることなく、労働の現場や時期を移動するような人生のあり方も、一般化した。それ以前にそもそも仕事からも学校からも解放された状態でいられるような人間の層が、大幅に社会の高度化とともに拡大し、多様化したのだ。

具体的で対面的な人間関係を構成する現場が以前のような強制力をもたなくなったかわりに、人々は、家や自分の部屋で引き篭る事によって、ひとりで世界と向かい合って生活するという形態が多く見られるものとなってきた。自分の部屋で引き篭るスタイルというのは、それ自体で孤独なものである。しかし本質として、決してそれは個人が自分の孤独と向かい合うというものではなく、そこで個人が自分だけの世界の中で向かい合うことになるのは、二十四時間絶え間なく情報を垂れ流し続けるテレビジョンの画面であり、ゲームソフトの世界であり、映画やアダルトビデオの世界であり、漫画的な享楽および動物的消費の現象であり、そしてインターネットへの接続であるのだ。

新しい引篭もり型の現代人の生態にとって、インターネットとはこのようにして格好の棲み家となった。ある種居心地の完成した棲み家であり、仮想であると同時に現実にもリンクされたこのインターネットとは、社会的な悪の次元にとっても、格好の繁栄の触媒となったのだ。