テクノロジーの抽象力

近代化とは、個人の身体性に対して一回抽象化を潜らせることによって全体的なパースペクティブを与える。上向過程を経た後にもう一度新たに根拠付けられる今の身体性というかたちで、身体の具体性に回帰してくる機械的構造をもっている。つまりモダニズムの機能の中にあるのは、身体性の消滅というよりも、全体化的なる抽象作業を経た後に弁証法的な上向から下向としての、身体性の具体化であり、支配の合理的な根拠を自己正当化することにあるといえる。

それに対してポストモダニズムにおける場合とは、それも身体性の抽象化のプロセスなのだとしても、別にその抽象化とは全体性の門を潜ってもう一度個としての再具体化に回帰してくることはもはや目的とはされていない抽象性であるといえる。

身体性は想像性によって抽象化される。しかしもはや空中に浮いた身体は、目的ももたず行き先も定まらない。それはアナーキーな欲動の流れであるか、あるいはそれ自体社会にとってみれば亡霊的な浮遊と化すものだ。個人の抽象あるいは想像というのは統合されるべき行き先や共通性からは、いい意味では解放されたものになり、悪い意味では、収まりがつかないものとなっている。

ポストモダニズムの中で抽象化された身体性にとって、それは個人の想像にとって個人の勝手で自由なものともなった。抽象的な身体性というのはそのとき理性の作用というよりも欲望の流れに乗じることによって、惰性的な傾向性としてはむしろだいたい動物化された欲望の流れへと赴く。

もはや個人の自由な想像は、目的として再び具体的な個別性のうちへと戻ってくる義務さえもない。そのような現象が社会的に一般化するとは、ポストモダニズムの姿として、自由に浮遊を、無際限に個々が勝手になしている想像界の乱立の、社会的な光景となって我々の目の前には現れることになった。

現在の自由であるという社会の歴史的な達成による了解が、個々の想像界の自由でアナーキーなる欲望的な解放をもたらしている。しかし結果として、自由の前提の元でなされているはずの、それぞれ個々の想像界の流れとは、動物化的なプロセスの中で結果的には非常に集団心理学的にはよく計算されうる、単純で一様の結果として単細胞性へと回帰して出てくることになる。そこには解放されたはずの個によってもたらされる創造性や生産性というのは殆ど見られない。みなが一様の取りとめのつかない想像性の、動物的な領域に住まう我侭で強情な生態として、個々の穴倉の中で存在しているのが、社会学的には結果的に発見されるのだ。

社会にとって共同幻想とはなくなるというよりも、むしろポストモダニズムを経ることによって強化された形で出てくるのだ。これは一体いかなる事態なのか?形式的に与えられた自由の中で、非常に均一化された想像的自我の旺盛という現象が、一様に社会的に起こっている。このような現象がポストモダンの結果なのだとしたら、それはどのように説明すればよいのだろうか。

規律権力は、社会的な権力構造を、意識的な力の作用と無意識的なる慣性力の作用の相乗効果により、個人の中に内面化するものであった。それは教育的な態度の構えとともに、権力の内面化のためにイデオロギー的補完作用として、愛と幻想の想像的な内包のための体系を提示することを伴う。それに対してコントロール型の権力とは、もはやディシプリンによる教育体系を伴うというわけではなく、個人が社会に自由に投げ出されているという形式的な放置の中から、むしろ個人にとっての生活環境の物質的・物理的なアーキテクチャを社会的に設けてやることによって、個人の内部には権力や隷属化が自動化作用として自然に、無意識的に、サブリミナルな効果によって、知らぬ間に忍び込むことによって、自動的に権力自体もそこで作用するように仕向けるものだ。

それは社会の機械的な体制としては、遠隔コミュニケーションのテクノロジーの発達ともパラレルに対応しうる。遠隔的な操作にまつわる(時間的、空間的な遠隔性)機械体系の発達とは、人間の使用にとって、功罪の側面を伴う両義的な意味を投げかけている。