アーキテクチャ

近代化のための中核的機能として規律訓練型の権力とはあったのだが、今では権力とは旧来のような存在仕様だけではありえずに、権力とはもはや物理的なアーキテクチャやメディア操作的な情報化のコード的な使用によってそれが機能するに至っているという事情から、東浩紀によって環境管理型の権力であるといわれているものだ。(情報自由論)環境管理型権力とはかつての規律訓練型のように主体に直接権力を働きかける事情をこのまない。間接的で代行的な権力の操作として、それは街やストリートの建築的な構造の中に仕掛けられる。

テレビやインターネットなど情報化的な操作として、流通しうる情報の伝播の中にコード化の作用として遠隔操作的に忍び込みうる。それらは人間が開発してきた遠隔操作的なテクノロジー機械の中から派生し、権力的な作用、支配構造的な自動化作用、隷属化作用、偶像崇拝的な権力の再生産の欲望化として、権力の要素としては、ほぼ自動的にそれ自体で展開しうる。

規律訓練とは、浸透させるために精神主義的な言説と論法を必要とし、個人のナイーブな部分にウェットに染み込む文学的な装置=内面的な装置をも構成したものだった。それに対して、環境管理による支配構造とはもっとスマートなものである。文学や愛情のイデオロギー的説教など必要もしないし、もっと無機質な表情によって機械的に振り分けて選別しうる。機械的に振り分けるが故にその扱いとは動物的なものに同じくなってくるだろう。

それは現代人にとってのポストモダン的な環境性に相応しい支配体制となりうる。環境管理型権力にあってはもはや個人を主体化しうる必要もないし、教育体制のために大きな資金を投資する手間もいらない。人間が生きて生活する場所のうちに環境としてそれら物理的なアーキテクチャを仕掛けておけば、誰が特別何を支持しなくとも、人々は自然にそれに従うようになるからだ。

これは権力の装置的な発明としては最も理にかなったものになる。最も合理的に人間を管理できて必要以上に手間もかからない。人手も省けるのだから管理する側からは予算的にも節約的だと考えうる。環境管理型権力には二つの存在形態が考えられうる。それはアーキテクチャとコードである。アーキテクチャは具体的な建築構造として、人間の生活舞台に仕掛けうるものだ。特にそれは公共的な空間の管理に支配力を及ぼす建築の物理的な構造だ。

ホームレスが公園のベンチを占拠してしまわないようにするにはどうすればよいのか?公園のベンチに丸みの凸部をつけてやれば、そうすればホームレスがベンチに寝そべるのを自動的に防ぐことができる。こういうものは元々、人間の合理的知恵であった。合理的な人間的知恵であるが故に、そこには両義的な賛否がわかれる。

都市の中の公園や駅や歩道などの建築物もあるのだが、アーキテクチャの次元とは、web空間の構造としてもやはり同様のものはある。そしてコンピューターの仕様に関してはOSのようなソフトのレベルでも独占や、そこでできることとできないこと、可能な次元と不可能な次元を隔てる物理的なメカニズムを忍び込ませてしまうこともできる。

マクドナルドの営業における効率性とは厳密な計算によって成り立っている。マクドナルドの店舗では椅子が硬い素材で出来ているのは、客の回転率を高めるために三十分以内に食事を終わらせようとする計算からだという。このような資本の効率性から為される計算性とは、アーキテクチャに仕掛けを入れるものによる、コントロールの間接的で代替的な操作性である。別に店員が三十分たつ直前に、お客さん時間ですよ、と呼びかけに来る必要もない。しかしそれは、コントロールではあるのだけれども、それ自体が何か特別に非人間的で不合理なものを含んでいるのかといえば、別にそんなことはない。

マクドナルドのこのような営業の景色を見て好き嫌いは分かれるのだろうが、資本的な営業の戦略として、アーキテクチャの装備とは合理的なものである。別にそのような手の内がマクドナルドからばれているからといって、特別客の数が減少するということもない。マクドナルドが好調な成績を収めるかいなかというポイントはもっと別の理由による。それはメニューの開発や接客の技術によるものである。

アーキテクチャやコードの技術的な作用というのは社会体の進化にとってみれば当然の事態でもあるものだ。だから別にそれ自体が誤りだと考えることもできない。アーキテクチャと情報的コードの抽象力が増すということは、そこで生きる人間にとって両刃の剣として両義的な効果をもたらす。だからそこでは技術的な要因を人間的に使用しうるか非人間的な活用に供するかは、人間主体の倫理的な判断性によるものになる。

しかし同時に、人間的主体という枠組み自体をテクノロジー機械の効果が揺るがしているものであって、機械自体の自立性の複雑な達成度からいえば、人間的と非人間的使用の二項分割さえをも、無意味で不可能な次元にまで持っていっている。

建築とは元来、技術的な装置である。そのとき建築というのには、現在の高度化するサイバースペースにも対応するような情報の流れや、貨幣の流通をフローとして制御するような抽象的仕掛けも含む。その構造の効果によって現象する社会から、あまたのSF近未来小説や映画などで予見されているように人間のほうが、顔の定かでない対象からの無機質な支配を受けるにいたるのか。

あるいは人間自身が再び、高度化する機械体系についてコントロールの縄を締め直し奪回することができるのか。あるいはまた、人間VS機械とか、そういう古典的な二項対立自体が意味をなさなく、機能しなくなるような、新たな次元が世界像の地平として切り開かれうるものなのだろうか。

マクドナルド化する社会を批判する者たちの論調とは、実はそれ自体が古典的なヒューマニズムに対するナイーブなる憧憬の名残であったりすることも多い。対応する心性や情緒性、主体性というのは近代文学的なものとして示される人間性であり、そういう前提のエコロジーであり自然主義である。

しかし、もはや現在では近代の文学性自体が、何かのイデオロギー装置や党派性に見えてしまうというのは如何なる事態だろうか。いま管理社会を展開させつつあるテクノロジーの構造、それ自体の機械的次元から導かれる暴走の危険性を食い止めようとするならば、それはもう「近代日本文学」以降の、新しいエコロジーの位相というのを、我々は提示しなければらない。