意味と『奇跡』と視線の根本的な変更

重要な本、偉大な本というのは読むという体験の質を変えるが、映画においてもそうだろうか。偉大な映画とは、見ると云う事の質を変えてくれる。視線の態度を変えてくれる。カール・ドライヤーの『奇跡』とは、世界の読み方、そして人間の読み方について、そういった変更を迫る映画だ。それは意味の向こう側にあるものについて、説明的なドラマのルールを使い順序立てて意味を構築していきながら、最終的にその意味自身の成立していた我々の信憑性を構造ごと引っくり返すだろう。我々の目線にとって、事物と人物の見方とは、往々にして固着し、知らずしらずのうちに隷属化を受けており、窒息しているのだ。人間の関係性が複雑になっていけば、社会においてそれだけ窒息の度合は大きくなる。意識そのものの視野は狭窄となっている。しかも知らずしらずのうちに、無意識的な慣習性として。我々の目線と理解の仕組みにおいて、対象の方は、把握のために既に窒息している。目線によって、人間のほうも窒息しており、目線と目線の戦いの中から、お互いに見出される人間達の関係そのものは窒息している。これら窒息は認識の段階にとって必然的に訪れるものである。ただそこでは対象が視線の支配によって窒息させられていることに、人が気付くか否かというだけである。場所の狭さによって窒息していることに気付き、新鮮な空気を求めるために、人は外へ出て彷徨いだす。

舞台とはもはや近代的なヨーロッパ社会である。『奇跡』は1954年に制作されている。歴史的な背景の古さを引き摺ってはいるが、舞台となる農場の家に訪れる医者は車に乗り、スーツを着こなし、無神論的な科学の話をして帰っていく。デンマークで農場を経営する一家の身の上に起きた物語である。父がいて三人の兄弟がいる。次男は優秀だったので、父は神学を修めさせ牧師にすることを夢見たが、途中で気が違ってしまった。家の中に引きこもり、意味の分からない神のお告げを、突然語り出す。次男は、よく家からいなくなるので家族が探しにいく。農場の丘に上り、そこからキリストのような真似をしてひとりで説教している。偽善者たちよ、気付け、神の裁きは近いぞ、・・・といったように一人で演説しているのだ。それを家族が見つけて、家の中に連れて帰る。次男は家族のお荷物になり、時に母にはもう先立たれた老いた父親にとって、悲しみも呼び起こすが、しかし次男の存在とは、家族の中で他に換えられない、独自の重要性を帯び続けた。長男はしっかりしており、嫁を迎えている。娘が一人おり、次の子供を妊娠している。三男は、結婚したいと思っている娘がいるのだが、しかし双方の親から反対されていた。双方の家とは、ともに敬虔なクリスチャンの家であるが、ともに対立する宗派の家だったのだ。三男の恋する娘の家族とは町で暮らしていた。父親は町の職人で仕立て屋である。農場の主と町の牧師とは、古い幼馴染でもあるが、ずっと論争していた。

町の仕立て屋の信仰とは、苦行を重んじ、現世を窮屈にする、厳しい戒律の信仰であり、それが嫌になった農場主の信仰とは、現世の幸福を肯定し、楽観的に広い心で、生の歓びを追求して生きようというものである。三男と仕立て屋の娘の結婚を巡って、昔の敵の関係が復活し、難航しているのだが、そこへ長男の嫁の陣痛がはじまり、どうもその具合が危険であるとの一報が入る。主は農場の家へ戻り、医者を呼び、医者は手術をはじめる。嫁の危険な出産を巡って一家は不安な一夜を迎える。家の外は、夜の間ずっと冷たく強い風が吹き付けているのがわかる。まず子供のほうは助からないことがわかった。後は母体の健康の問題である。母体は回復したかに見えたが、しかし医者が帰った後に、息を引き取ってしまった。医者は帰る前には、母体は助かったと思って、家の者と食事をしながら、有神論と無神論についての論議を交わしている。そこには宗派の牧師も加わる。

奇跡とは本当にあるのか?奇跡とは一回限りである。それはキリストで終わったのだ。牧師はそんな風に語る。神は、自然の摂理とは対立しない。しかしキリストだけは例外であった。医者は聞き返す。神は絶対に自然の論理とは対立しないのに、しかし例外は認めるのかね?医者は超自然について、科学的な意識から全く信じていない。家族の進行、そして新しい結婚の難航、新しい子供の死産という事件を通じて、自然と超自然の問題は、日常的な意識の連続性によって、淡々と組み立てられている。社会は自然の掟によって進行するのみだ。超自然なんて意味がない。農場の一家、そして町の家族の日常生活にとって、この自然の論理の退屈さを乗り越える出来事とは、何処に到来しうるのだろうか。奇跡は起きるかもしれない。しかしその奇跡自体も、きっと単純なものである。自然の法則とは退屈である。それは社会的な自然の法則として成ればなるほどに、人々の意識を窒息させる。詰まらなくさせる。小さくさせる。この自然の掟が何処かで打ち破られる時、それが奇跡の到来なのだろうか。あるいは奇跡とは、やはりこの自然の掟の延長上にあるのだろうか。

退屈し、窒息した人々に、再び生の息吹を与えられるものとは何なのか。ある日、精神を病んでいる次男は失踪し、家族が探しにいってももう見つからなかった。奇跡は何処まで行っても、人々の意識には到来しないのに、しかしそれでも奇跡を待つのだろうか。どんな状況の最中でも、待ってしまうことこそが、人間の避けられない習性であるのか。惰性としても、愚かさとしても、あるいは最後の賢さとしても。ドライヤーの示している展開においても、やはり奇跡とは、自然の論理の彼方に示されている。しかしそれは、あまりに呆気ないが故に、超然とした、論理の裂け目である。意味ではないもの、意味の向こう側から、奇跡は到来している。その体験を目撃したものとは、世界の見方を変えざる得ない。それは映画の見方を、人間の見方を、そのものの変更を迫るだろう。本の読み方も、言葉の組み立て方も、日常的な物の捉え方が、きっと根本から違っていたのだ。窒息に人が気づいたとき、まず意味など何もなく、無根拠に人は外の空気を吸いにいく。その時こそ、人の欲求とはあらゆる論理を超えて飛び出そうとしている。丘の上までいって、景色を見晴らし、深呼吸がしたくなるものだ。