「他者が無い」とはどういうことか?

今日の引用。
ジャック・ラカンセミナール『精神病』より。(1956年。「穴の周囲」)

私はこの主張を、異なるグループに属する人の口から聴いたのですが、それは「その人にとって、他者というものが無いという人を分析することはできない」というものです。

「他者というものが無い」とは一体どういうことを言わんとしているのでしょうか。こういう定式は真実に近い何らかの価値を、たとえいかに貧弱であれ、持っているのでしょうか。何のことを言っているのでしょうか。体験上のことでしょうか、他のものに還元できない感覚のことでしょうか。私達の症例シュレーバーを例にとれば、彼にとっては確かにすべての人間はしばらくの間「へのへのもへじのいい加減な奴」の状態になっていました。しかし、彼にはちゃんとひとりの他者があります。それは特別に強調された他者、絶対的な他者=A、全く根本的な他者=A、ひとつの位置とかひとつの図式とかいったものではない他者=Aです。この他者Aについて患者は、それは自己の流儀に従って生きているひとつの存在であると確信し、その他者は脅かされた時には、生きている他者達と同様利己的になることができると強調しています。

シュレーバーにとって、そういう他者が存在していることは『回想録』の或る章の冒頭の、極めて刺激的かつユーモアのある箇所に記されています。そこで彼は自分は決してパラノイア患者ではないと言っています。パラノイア患者とはすべてを自分自身に結びつける者、自己中心性が蔓延している者である、というクレペリンの定義を彼は読んでいました。そして彼は言うのです。「ところが私は全然違う。私にすべてを結び付けているのは、あの他者=Aなのだ。」、と。そこにはひとりの他者Aがあります。それが、決定的であり、かつ構造に係わることです。

人がパラノイアに陥っている時の症状として、患者にとっては意識と行動がエゴに支配されているというよりも、むしろ主観的な意識上では全く逆に、自分は完璧にエゴを抹消してるのであり、完全なる利他主義に従っているのだと思っているときのほうが多いのだろう。パラノイアによって彼の行動は、全くの常識外れであり、自分勝手で我侭なものとして出てきたとしても、彼の主観上では、自分ほどエゴを克服している人間はいない、完全な利他主義者はいないと思われている。

つまりパラノイアにとって、それは意識からの他者の消滅であるということでは全くなく、他者が特定の形状で凝り固まり、固着している状態のことにあるものだ。シュレーバーは極端な例だと思われているが、キリスト教的な意識の延長上では、このような完全なる利他主義パラノイアとして現象する意識の構造とは全く珍しいものではない。エゴイズムを消去すること、自己犠牲を実現することをその目的とするキリスト教的構造が、結果的には全き主観上は純潔なパラノイアのケースを生む。シュレーバーが陥ってるのは、完全なる純粋主義を希求する有様である。

これに対してラカンが強調しているのは、フロイトこそが始めて、世界を構成する思考上に「自我」の概念を持ち込んだ人である、というポイントにある。それはmoiであり、egoである。他者から神に至る世界の地平上にある意識が、すべて実は自我を経由して構成されている、他者や神といった次元は、屈折によって自我を経由して像を結ぶ光学的なイメージに同じである。如何なる形でも、この自我の外部にあることは、人間の構造にとって有り得ないということを、西洋的思考の流れにおいて、はじめて明確にしたのが、フロイトであると強調している。

それに反して、キリスト教的思考の宿命とは、なんとかしてこの自我=エゴのポイントを、罪深き点として、消滅させようとすることにある。(それは原罪性としての受肉化と精神の交差する、罪がある故にナルシズム的な実体である。)しかし、キリスト教的な媒介で利他主義−要するに「アガペー」という事だが−だと思われているものが、構造上はどうあっても自我の側からの−エゴの構造からの外には出てはいないのだという、意識上の屈折した絡繰りについて、明らかにした。利他主義=利己主義の構造である。例えば、フロイトと並行してフッサールでは、純粋エゴという現象学上の立脚するポイントが示されているが、フッサールの場合でもやはり、当時のドイツ的論壇においてフロイトの立論ほうが先に出てきたものであり、そこから現象学にも反照しているのだろう。