妄想の意味

今日の引用。ラカンの『精神病』より。(「精神病への問いの序論」)

了解という概念の意味するところは、一見極めて明瞭に見えます。それはヤスパースがそれを手がかりに、了解関連という名の下に、彼の精神病理学のいわゆる総論の要とした概念です。了解という概念は、自明だといえる事柄が存在すると考えることから成り立っています。たとえば、人が悲しいのは、欲しいものが手に入らないからだと考えることです。しかし、これ以上の誤りはありません。欲しいものをすべて手にしても、やはり悲しい人もいます。悲しみというのは、そういうこととは全く違った本性から由来する想いなのです。

もう少しこだわりましょう。子供に平手打ちをくらわすとしましょう。当然その子は泣きます。泣くのが当然だと誰もが考えます。しかし私はある小さな男の子のことを思い出すのですが、その子は平手打ちを食った時、「撫でたの、ぶったの」と尋ねました。「ぶったのだよ」と言われれば、泣くでしょう。それが普通で当然のことです。「撫でたのだよ」と言われれば、非常に嬉しそうにします。それだけではありません。平手打ちを食った時、泣く以外の反応の仕方が他にもたくさんあります。平手打ちを返すこともできますし、もう一方の頬を差し出すことも、更に「殴りなさい。でも話を聞きなさい」と言うこともできます。結果は実に様々です。しかし、これらのことはヤスパースが明らかにした了解関連という概念においては顧みられていません。

しかし、ラカンは別にここで、事件の解釈も意味も多様でよいという話をしようとしているのではない。

ラカンセミナール『精神病』において、「妄想」の意味を問い返し、妄想の発生する理由を解明しようとしている。

ラカンが注意を示すのは、「対象関係の不注意な操作」ということである。分析によって逆に、精神病を引き起こすという現象がしばしば見られる。その理由は何なのかを問いただそうとしている。ラカンは症例の原因について次のように示している。

「それでもなお、かなり持続的で、時には決定的な妄想が極めて急激に発現するという、よくある症例の原因は、想像界をそのまま認証し、象徴的平面での再認の代りに、想像的平面での再認を行うことを旨とする分析関係の操作の仕方に由来していると言わねばなりません。」

ラカンは、妄想の発生する原因について、このように考えているのだ。

精神分析を双数(決闘)的なものと理解する枠組の下で現に行われている対象関係の取り扱いは、象徴的次元の自律性を無視することに基づいています。この無視は自ずと、想像的平面と現実的平面との混同を引き起こします。だからといって、分析関係から象徴的関係が除外されてよいわけではありません。何故なら、人は相変わらず話し続け、またそうする他ないとすら言えるからです。しかし、この無視から次のことが起こります。つまり、真の象徴的交流の平面でこそ自らを認めさせたいと主体の中で要求しているものが、−それはとかく干渉を受けて歪められるものなので、そこまで到達するのは容易ではありませんが−想像的、あるいは幻想的な次元での再認にとって代わられるということが起こるのです。このように、主体の中で想像界の次元に属するものをすべて認証してしまうことは、正に分析を狂気の入り口にすることです。しかしこのようなことが、患者をもっと深い狂気へ導き入れないことは、驚くべきことです。おそらく、この事実は狂気になるためには、何らかの条件とまでは言わないまでも、何かの素質が必要であることを示しているのでしょう。