想像的平面と象徴的平面の混乱

ラカンセミナール『精神病』で示したように、想像的平面の再認と象徴的平面の再認を取り違えることによって、妄想の発生は起きている。(それは単に取り違えているというよりも、何らかの前提になっている経緯によって、その区別を付けることが出来ない状態が生じているということにある。)ということは、症状を治すためには、この象徴的再認と想像的再認の区別を付け直していくことだということになるだろうか?例えば昔、木田元の本を読んでいたとき、人は何処で哲学者になるのかという話で、人は、自分が哲学者だと、思ったときから、決めたときから、もう哲学者なのだ、という話しがあった。こういう話し口は一見解放を呼ぶ。よくある話し口である。精神治療の現場において、こういう形の「肯定」というのは、時と場合によっては有り得るのだろうが、ラカンが注意を喚起しているのは、そういう想像的平面での再認を分配する時の遣り方である。

他人の承認が無いところでも、人は「単独的に」闘いながら、自らの作業を完遂することのできる自由も、持つわけであって。このような自由は大事であり、いつの時代でも有り得たものだ。しかし存在にとって、そういった単独的な領域を残しつつも、個人の作業から作品が、一定の価値を帯びるためには、想像的な再認だけではなく象徴的な再認の方へと、物質的な確認の平面を(ディスクールとしての)もっていかなければならないという必然性も生じる。この必然性の捉え方というのが、人によっては、少々厄介なものとなるのだろう。ここでラカンの言い方で、微妙な重要性とは、それを「再認」とよんでいるのであって、決してそれを「承認」と混同していないところにあるのだろう。(このような区別とは、たぶんラカン的なものの倫理ではなかろうか。)

ラカンは『精神病』の中で、神には、騙す神と騙さない神の二種類の位相があるが、騙さない神とは、ディスクールとして物質的に産出されたものの次元の、通時的な蓄積にある、即ちそれは科学のディスクールの次元にあるものだと言っている。この科学的ディスクールの起源になっている、客観的な確証性の次元とは、もとはユダヤキリスト教的な伝統から出てきたものであり、絶対に欺かない何かが、確証の次元としてこの世には有り得るのだという「信仰」の形態こそが、起源になっていると示している。

想像的平面と象徴的平面の取り違えということでいえば、コメディ的な設定の重要な要素とも、文化の中では伝統的になっている。例えば、ロバート・ロドリゲス監督の映画『フロム・ダスク・ティル・ドーン』では、タランティーノが重要なキーパーソンを演じる役者として出演してるのであるが、ここでタランティーノは妄想性癖の、おかしな強盗を演じている。ジョルジュ・クルーニータランティーノの二人で、強盗の兄弟が演じられている。兄のクルーニーは凶悪犯で刑務所に入っていたところを、弟のタランティーノの力で脱獄に成功する。お尋ね者の強盗兄弟は、二人で逃亡し、メキシコへの国境突破を試みている。この二人の逃亡劇において、通りすがりのガソリンスタンド、コンビニエンスストアなどを襲いながら、金と車を調達し、人質をとりながら逃亡しているのだが、至る所で、弟のタランティーノが兄貴のクルーニーの足を引っ張るような仕組みになっている。弟のタランティーノには、妄想癖があって、特にそれは性的な異常妄想として発達しやすいのだが、他者の言葉に対して、そのフレーズから過剰な意味を常に読み取ってしまう。いきなりコンビニの店員を撃ち殺すが、兄に、あいつはいま警察に電話していた、とその理由を語る。人質に取った女の子をジロジロ見ながら、彼女が、私をファックしてと自分に向かって呼びかけていると、勝手に唇を読み取ってしまう。もちろんそれらは単純な妄想なのだが、そういったメッセージの誤読によって、常に、クルーニータランティーノの二人組みの逃亡劇は、危機的な方向に追い詰められてしまう。

タランティーノは、他人のメッセージの本当に下らない誤読から、いとも簡単に他人を撃ち殺してしまう。悲劇的な性癖の、頭の鈍い弟で、しかも異常性犯罪者のにおいを漂わせているのであるが、このどうしようもないダメっぷりが、妙に観客のシンパシーをひくように出来ているのだろう。タランティーノのこの役どころであるが、タランティーノの地の性質にとっても、裏をかくものとして、友人のロドリゲス監督によって、面白半分で設定された役柄なのだと思う。もちろん、タランティーノのような、ナーバスなものと隣り合っているが故にワイルドな展開で脱出する方法を編み出すというクリエイターだけでなく、我々にとって日常的会話の殆どは、機微の読み、裏読みによって、空気を伝達するものである。この空気の読み方に、悲劇的な読み違えの反復を加えることによって、喜劇的な映画の展開の、共感しうるリアリティを付け加えている。この鈍くて足手纏いな弟役タランティーノの演出によって、映画の進行は、おかしな同一性をもちながら、ドラマの進行がスムーズに導かれるようになっている。