『SIN CITY』

ロバート・ロドリゲスフランク・ミラーの共同監督の『シン・シティ』。05年の作品である。ここに更にスペシャルゲストの監督としてタランティーノの名前が連ねられている。CGを駆使したハードボイルドの映画で、構成される映像の力をフルに引き出すことによって、ある種残忍さのシーンを連ねながら興味を時間的にひいていく映画である。CGで演出された残忍さのシーンは、合成してるのがわかるので滑稽さも伴うが、人間的身体の限界から何処までも超越したものを描けるので、部分部分では、目を覆いたくなるような極端な描写も散りばめられている。これは映像における、暴力描写とCG加工の関係性を改めて問われる映画になっているだろう。暴力とCGとヴァーチャルリアリティの生成における倫理性が、そこでは実験的に試されうる。

これを見ていて思ったのは、もともと残酷のシーンというのは、人間的身体から引き出せる生物学的な限界性、物理的な限界性というのが、そのまま人間的感性の耐えられる範囲での限界性を領界づけていたわけで、CGの特殊加工によって、その物質的な限界の枠が簡単に消されてしまうと、本当のところ人間がそれを見て怖いと思ったりリアルだと感じるラインというのも、実質的に実在してたはずのラインをかき消されてしまうので、映画によってこの作業を続けていくことの、限界というのが、何処かでそのうち生じることになろうかという気がするのだ。まだ今のところは、合成映像の現実性と非現実性の入り混じる感じが、見る方でも作る方でも、そんなに日常的な現実感を麻痺させうるものだということが、あまり自覚もされていないかもしれないが、このペースでこれを続けていくと、確実に人間的感性のベースというのが異常を来たすか、あるいはそれは今までとは形の異なったものに変形されていくことだろう。この事態がいいのか悪いのか、まだ今の段階では決定しがたい。同様のリアリティの感覚を巡る危機感を覚えさせるものとは、やはりインターネットとして私達の身の回りに起こった新しい現実の在り方であって、特にその現実感覚が、とことんまで破壊か狂気のラインにまで瀕するものとして、2ちゃんねるのような匿名掲示板の進行があげられるが、映画的感性、映画的リアリティの感覚においても、2ちゃんねるで起きている事態と同じような感覚の変容がやはり進行しているものであることを、この映画を見ながら感じたものだ。

映画の出来栄えは、まあ悪いものではないとは思う。しかし実写版のアクションに慣れ親しんだ自分の感性から言えば、このゲーム的な画面の延長上に構築されたようなヴァーチャルリアリティの感覚は、どうもいまいち満足できない後味は残るのだ。映画『シンシティ』で起きている事態も、ゲーム的リアリティの現実化の一環の現象には入るのだろうが、ゲーム的であることや、空間が自在に可塑的で時間の軸が不明瞭で構わないところなどが、もっといい意味で生かせないのだろうかとは、疑問に思うところがある。シンシティのような映画に使えば、殺人ゲームにおける際限のない悪循環、殺しても死なない、殺されても簡単に生き返る、主人公も悪役もなかなか死なないので、何処で事件のキリが付くのかも見えにくいということになり、何処まで暴力を加えたら現実の人間は死ぬのかという感覚を、本当に見失ってしまいそうな不安というのは、確かにあるなと思ったのだ。結果、なかなか映画の中で人が死なない、殺せなくなるような事態というのは、かの人物を殺したことにするまでに、信じがたいような際限のない暴力が加え続けられることになる。例えば、頭に奇形の障害をもった街の黒幕の息子は、女をさらって監禁する悪役で出てくるが、これをブルース・ウィリスがやっつけるてやるとき、まず胸をナイフで刺してから、次は下の武器を切り取ってやろうといって睾丸を捻り潰しもぎ取り、トドメは黒幕代議士の息子の、奇形を持った宇宙人のような頭部を形が消滅するまで拳で殴り続け、最後は拳が床を殴っているまで繰り返し続けるとか。これはCGでゲーム的な設定だから出来た描写だが、しかしこういった類のシーンの連続を見せ付けられていると、やっぱり観る者の頭のほうまでおかしくなるのではないかという一抹の不安を感じる。ハードボイルドの映画のはずなのだが、なんだかタチの悪いスプラッタームービーを見てしまったような後味の悪さを感じる。これも映画史的に位置づけてみれば、映像のコンピューターによる加工技術の実験的な段階にあたるものなのだろうから、監督したロドリゲスやフランクミラーにしても、こういった経験を踏まえながら段々作り方もうまくなっていくという可能性はあるのかもしれない。

しかしシンシティとは、残酷で陰惨な映画だったとは思う。この徹底的な陰惨さ、出口の無い無法社会の描き方というのは、映画の歴史を振り返ってみれば、実は前にも見たことのあるような気がするもので、思えばこれは、70年代の日本映画でヤクザ映画の映像に滲み出ていた絶望感ではないか。ロドリゲスやタランティーノが、世界の残酷性を描くとき前提にし、最も影響を受けているのは、70年代日本の任侠映画であったことは明らかである。今の日本映画では70年代にあったあの暗さというのは、いつのまにか消えたのだ。何故だろうか。これは理由を分析的に示せるだろう。唯一、あえてあの暗さをリバイバルしながら継承していたのが北野武のギャング映画であったわけだが、それもまた終焉している。70年代の日本は確かに社会が暗かったのだ。ヤクザ映画が流行した背景には、当時の新左翼が陰惨な内ゲバを繰り返すようになって実際に人を平然と殺していた、実在した怨念の復讐合戦といった状況とパラレルに繋がっている。映画におけるこの暗さとは、社会の発展段階の反映によるのだろうが、70年代の日本的な映画の暗さを、日本のほうではもう失い、それが今ではアメリカのハリウッド映画によって引き継がれているとは、一体どういう状況なのだろうか。単なる映画マニアのフェティシッシュという意味合いを超えた何かが、そこにはあるように思われる。

シンシティのようなアメリカ産のヴァイオレンス映画を見ていて思うことは、やっぱりこの国は、現役で戦争を続けている国なのだろうなという実感である。殺戮シーンの連続とは、一見普通の生活とはかけ離れているようにも感じるが、例えばイラクの戦場で戦っているようなアメリカの兵士にとって、ああいう人の殺し方、次から次へと無意味に人を殺し続けていかなければならないような強制力的な環境とは、現実の状態なのだろう。だからハリウッドを有するロサンゼルスのような街は、単に治安が悪いとか、銃が出回っているとかいうようなレベルを超えて、アメリカ人にとって他者を殺害する、そして自分は何とか生きのびるという、生死を隣り合わせにしたゲーム的状況というのは生活に緊密に絡まっているものだということがよくわかるのだ。CG加工をフルに導入したゲーム的世界像としてのシンシティは、ロドリゲスのベースで主導された作品であるが、これに対してタランティーノのとる路線とは、徹底的な、限界までの容赦なきアナログのアクションへの回帰であるということは、もう明らかである。こういった映画の史的状況へのタランティーノによるレスポンスとして、あの『デスプルーフ』は制作されているのだ。