タランティーノの映画愛かくも極り倒錯し至りけり

土曜の夜に、タランティーノの新作『デスプルーフ inグラインドハウス』を見たのだが、この映画は凄かった。ガツンときました。どんなすごかったのかというと、要するに、あのワイルド・アット・ハートよりもすごかった、乗り越えたほどだったのだが・・・どういう意味か、まあそれは見てのお楽しみということで。・・・タランティーノが自分の世界像を究めているのだと思う。彼の世界が完成に近づいてきている。彼の映画的美学もここまで来れば本物である。

water proofで耐水仕様という意味なら、death proofとは耐死仕様という意味で、その世界で言われる俗語である。その世界というのは、スタントマンの世界、そして映画制作の現場である。カート・ラッセル演じる老いたスタントマンの滲み出す狂気の演出がよく考え抜かれていると思った。こういう狂気はわりと身近にあるものなんじゃないだろうか。奇妙に現実感のある身近な狂気としてあれを感じた。なんというか、この男の狂気、若い女から漠然とした社会全体に対する復讐的情念の存在とは、とてもわかるような気がするのだ。共感可能な狂気の存在である。要するに昔、若い頃多少は鳴らしたこともあるスタントマンだが、今では仕事にも恵まれない。初老の男は、自分の黒い改造車を乗りながら(要するにこの車がdeath proof−仕様なのである)、郊外のソウルバーを徘徊している。哀愁も滲ませているような男である。スタントの仕事を奪ったものとは、映画におけるCGの加工である。昔話をバーで若い女相手に語りながら、昔の映画の名前を引き合いに出して語るが、そんな映画を知る女の子もいない。物珍しげな感じで、男はソウルバーに集う若い女の子にアピールしている。映画で流れているのは、60年代から70年代に流行ったような、懐かしい色取のソウルとR&Bである。

脚を強調して露出したショートパンツに、胸を張り出した白いティーシャツの女達。身体的な存在感を強調する演出が、ソウルミュージックに合わせながら、極端にまでタランティーノによって描写されている。女達による女達の為のガールズトークが延々と交わされる。車の中で、バーの中で。女性的な享楽と若さの喜びを、最大限に身体的に受肉化させることによって、タランティーノは浮き上がらせている。ここでそれを表現するためのストレートな武器とは、ソウルミュージックであり、彼女達のダンスである。カートラッセルはここで、静かに女達に近づきながら、実は強烈な性的倒錯のエロスを志向する、秘められた変態男であるのだが、遠くから女達を写真に収め、段々と近づいていきながら彼の狂気を顕わにするまでの過程、その時間的な進行の割り振りは、もう映画として絶妙のものだろう。内側の襞に畳み込まれた狂気の存在とは、必ずしもこの男だけのものではなく、女達の方にも所有されているというのは、二番目のエピソード、二番目の事件に登場する、新しい四人の女達によって潜在的に示されるものとなるだろう。

しかし、女達にとって、この映画でカートラッセルと対戦することになる女達とはみな若い女だが、狂気はまだ顕在化していない。狂気的な要素は、女達のそれぞれにとって、片鱗を覗かせてはいるものの、それはまだ病気として発症はされていないのだ。カートラッセル演じる売れないスタントマンについても、若い時分には自分の狂気の存在について、まだきっと無知であった可能性は高い。ある年齢の進行、時間の進行が、性的な意味での個人にとっての、狂気の進行を顕在化しているはずなのだ。スタントマンにとって、それは70年代的な映画制作の黄金時代から、現在に至るまでの過程にあるものであり、映画の制作システムが変更されてきた記憶とは、今ではもう消滅していった、日本では名画座にあたるような映画館の形態−アメリカでは、そのような映画を三本立てぐらいで遅れてかけるB級映画館のことがgrindhouseと呼ばれていたのだが、そこで体験した映画の記憶とともに、70年代のカルト的なアクション映画の記憶が、事件の節々において、古い時間の強度として鮮烈に蘇るものとなる。昔のアクションムービーとは、例えば「Vanishing Point」のような、今では恥ずかしくなる感じの、ストレートな反抗精神の記憶である。70年代的なものの記憶を、当時の反抗的精神を刻んだ映画にそれぞれ即して蘇らせていく。今では記憶の古層において埋もれている、失われている映画であり、映画的精神性である。若い女達にソウルバーでそれを語ってみせるカートラッセルの役割とは、精神性における啓蒙者の位置を持っている。しかし本当に、彼の啓蒙行為が本質的な実行に入るとき、それは老いた男の狂気的な性的代替行為であり、過ぎ去った時間に対する復讐行為として、彼のスピリチュアルな伝導行為は実行に移されることになる。

この映画は、過去の映画のノスタルジーで満ちている情景描写から始まる。音楽も、台詞も、役者の演出も、イメージの切り取り方も、すべてがノスタルジックな埋没の状態から、事件がスタートする。イメージのノスタルジーとは、かつての名画座グラインドハウスにおいて、上映された映画と同じように、フィルムには所々傷があり、途中で不自然な切れ方をし、映像には変な染みがありという状態を、意図的に復活させる映像としている。タランティーノの、イメージに対する愛がかくも深まると、イメージに対する粗雑な扱いの手つきが、イメージに対する自虐的な攻撃性として、映画に現れるものとなっているのだ。愛を極まれば、愛する対象を痛めつけずにはおれないという、タランティーノの貧欲なる荒々しい欲望する手つきが、猥雑につけられている。映画に対する愛と偏執的な情熱が究められるとき、遂にはここまで赤裸な試みが平然と示されるようになるのかというものである。映画に対する愛の偏執性とは、カートラッセルが若い女を遠くから付け狙う偏執性と、まさに同じものであることが、タランティーノ的欲望の正直な姿として露出されている。そして最終的なスタントとして、若い女達との最終戦争が、死のカーチェイスとしてカートラッセルとの間で演じられるものとなるのだが、このカーチェイス戦争の有様とは、素晴らしい出来栄えとなっている。こんな凄いアクションを滅多に我々はお目にかかれないだろうが、もしどこかでやはりこれを見たことがあるという懐かしい気がするなら、70年代にあった映画制作の情熱とは、貧しく原始的な手段でチャレンジされていたものとはいえ、本質において、これと全く同程度の精神の冒険が、常に映画のために強いられ課せられていたのだという、映画的充実の古層に眠る記憶をあからさまに呼び出してくれるものなのだ。この映画は、タランティーノの映画に対する偏執狂的愛の勝利を歌うものとして完成されている。素晴らしい映画である。映画による身体表現−身体的受肉化のエロスと享楽と情念的昇華の極致といえるものが、ここで実現されているのだ。