今日は『グッドシェパード』を見たんだが−

今日は映画の日だったので何を見ようか迷った。まず森田芳光監督のサウスバウンド。内容は、元過激派だった親父が、子供と女房を連れて沖縄の田舎に引っ越すという話。東京で暮らしていた時は親父を馬鹿にしていた子供は、沖縄暮らしで親父を見直すとかいう話。ふむ、面白いかもしれない。評判はどうか?特に話題にはなってないようだ。DVDになってから見るか。森田監督の映画なんて、そういえばずっと見てないなあ。家族ゲームむかし見たときは、結構期待したんだけど。ヘアスプレー、これはジョントラボルタが、母親役で女装して好演しているという噂だ。この映画は結構ランキング高いみたいだけど。元ネタはジョン・ウォーターズのヘアスプレーらしい。ジョン・ウォーターズは興味ある監督なんだけど、それはまだ見てない。トラボルタも最近ではめっきり太ってしまった。トラボルタを見ていて思うことは、この人ダンスに関してはオタク的なマニアなんだろうけど、運動は嫌いそうな感じだなというところ。結局、ロバート・デ・ニーロ初監督作品だという触れ込みで宣伝されてる「グッド・シェパード」を見たのだった。

話は、アメリカ国家におけるCIAの歴史を、マット・デイモン演じる一諜報員の人生を追うことによって、浮き上がらせるものだ。第二次大戦中から、キューバ危機を迎え、米ソ冷戦時代のスパイ合戦を、国家の諜報員として生き抜く男の人生を追っている。男は結局、国家機密の使命と家族の間で引き裂かれる運命を辿るのだが、あのデ・ニーロが映画監督としてはどうか、というところがやっぱミソじゃないのかな。この映画は。国家機密と諜報機関を舞台にした映画を撮ってるけど、映画を見てまずわかるのは、デ・ニーロが影響受けてるのは、やっぱりコッポラやスコセッシの映画の手法であって、映画の作り方としては、特に変な癖もなく、平均的なレベルの中にあるドラマを作ってるという感じか。ギャング映画の演出を、国家の諜報機関に演じさせているといったドラマになっている。CIAがKGBのスパイを捕まえて拷問していたり、中南米に送った仲間のスパイが殺された時は、送られてきたコーヒー缶の中から、黒ずんだ仲間の指が出てくるとか。ゴッドファーザーみたいに、ギャングが一個のギャングとなるまでの生い立ちを、子供時代のエピソードから描き出し、そこには子供が体験する世の中の残酷さや、友情やウブな恋心や喧嘩のエピソードがあるわけだが、そういう環境設定を、イェール大学のエリートが、国家的な警察機関に自己を主体化していく過程として描いている。かといって、登場人物たちには別に国家への愛が豊かに溢れ出るという感じはなく、なぜ国家に無制限な忠誠を尽せるような、ある意味ロボット的な機械的人間に成長していくのかという理由は、よくわからなかった。単純に説明不足だと思う。

幾つか象徴的なキーフレーズとして、映画の中で反復されるフレーズがある。ジョイスユリシーズとか、耳のよく聴こえない、耳の悪い女とか、男が小便をかけることとか、大学で泥レスをやってるのを上から小便かけて冷やかしたり、子供が雪だるまに小便かけて遊んでいたり、あとそれから、趣味の模型の制作で、ああいうのは何というのだろうか、ガラス瓶の中に、帆船の模型をピンセットを使ってうまく作っているのだが、それをマット・デイモンが自分の子供と一緒に組み立てている。このガラス瓶の中の帆船模型のイメージが、何度か反復されている。耳の悪い女は、不倫の相手だったり、実は若い時に本当に好きな女だったかもしれなかったり、情事を仕掛けてくるスパイの疑いのある女だったりとして出てくるが、耳が悪いという障害を背負った女が、どういう意味を帯びて、またどんな色気を醸し出そうとしているのかも、よくはわからなかった。何か障害をもった女が微妙で独特の色気を出して誘惑するというのは、ハードボイルドではある、反復される設定だと思う。というか、何か意味あり気なフレーズが幾つか反復されて出てくるが、それらがどう機能しているのか、機能させたいのかも、よくわからず、うまく全体構成の中で、統一を持てていなかった。これはデ・ニーロの落ち度だと思うのだが。

CIAがスパイをリンチしてるシーンも、強迫神経症的な拷問をかけて、結果、ロシア人の男を発狂までさせて自滅させてしまうのだが、こういうのもギャング映画の演出であって、強迫神経症的なリンチを他人に浴びせるものは、必ず他人を追い込むだけの切羽詰った背景を自分自身で持っているものだが、何故CIAがそんなにヒステリックに追い詰められているのかというのも理由がわからないし、ギャング映画の仕掛を無理にCIAに当て嵌めただけという感じがする。「グッドシェパード」は、日本でも相当多くの上映館でかけられているので、映画の配給としては力を注いで宣伝している映画なのだろうが、デ・ニーロが監督したという触れ込み以外に、この映画にそれだけの内容が篭っているかというと、ちょっと辛いと思う。デ・ニーロが監督やりましたというだけで、果たしてそんなに客が呼べるものなんだろうか?その辺は興行側も何考えてるのかわからない。可もなく不可もなくという感じのサスペンス映画である。国家という物の重みと憂鬱を、ギャング映画の培ってきた重厚性のイメージにおいて、悲劇的な彩りで伝える。最近だとスピルバーグの「ミュンヘン」のような映画が、同様のテーマを伝えうるしイメージの重みも同様のスタイルなのだが、やっぱりもうちょっと何かを付け加えないと、面白い映画にまでならないのではないかと思った。

デ・ニーロが見出したいと思っているイメージは何なのだろう。やはり残酷と愛の隣接した世界像なのだろうか。それだと他の数多あるアメリカ映画と変わりない。ただ、デ・ニーロが描こうとしてるドラマが、別に国家というテーマではなく、人間関係の交差における、秘密の移動する位相空間であり、これは別に国家やスパイのテーマではなくても、抽象的に受け取れる内容であり、家族に対しても、仕事上の仲間に対しても、次第に秘密の割合が大きくなり、国家という抽象的実体には忠誠を尽していると思いつつも、具体的な人間関係においては、秘密による疎遠と疎外の感覚の方が、ひたすら増大していくしかない、主体のどうしても抗えない、蓄積される孤独の構造が、要するにこの映画のエッセンスに当たっているものである。人間関係において、秘密は何故発生するのか。そして秘密はどのように移動しどう増大するのか。秘密には、秘密の構造があり、秘密のキャピタリズムがある。この構造が渦を巻き運動をはじめると、それはどんな個人でも抗えるものではない。諜報員の宿命とは、常に誰かがスパイでないかと疑っているのだが、他人のセックスしてる音声まで丹念に記録していて、その中で、女が、愛する二人には秘密はないの、と言っているテープが、やはり反復されるのだが、秘密の漏洩する瞬間が、要するに愛の営みの最中、情事の最中であり、秘密に嫌気がさしている職業的な神経症に駆られた登場人物たちが、アイロニカルに、最も秘密から遠ざかりたいと思っている時間にまで、このミッションの構造的パラドックスとして、更に下位に潜む視線によって、筒抜かれているのを発見して呆然とする。何処にメタな視線が潜んでいるのかわからない、安心して他者と交わることができない。

関係における疎外とは、何故必然的であり、その必然的な距離を、個人的なものというよりも、もっと普遍的な距離として、どう捉え直せばよいのか。そう考えた時、マット・デイモンにとっての国家という媒介項は、普通の日常人にとっての会社とか組織といった対象に置き換えても、似たような問題を見出すことはできるのだろう。グッドシェパードが伝えているのは、国家という実体の抽象性、無機質性の不気味さと、そして人間関係というのは、何らかの形で、人間の形を超え出る大きさの機械的枠組による、抽象機械の不気味さに媒介されて在るものだということを確認させることにあるのだろうな。この映画を肯定的に見ればね。