クリスマスの夜に『バスキア』を観ていたのだが

クリスマスの夜にツタヤにいき、見たいビデオを探していたがこれといったものが見つからず借りてきたのが『バスキア』だった。なんとなくクリスマスの夜というのは、バスキアっぽい感じがしたのだ。NY的な画家の生涯である。96年の映画。バスキアという人物が絵画史的に見てどういう価値を帯びるのかも僕はよくわからないのだが、映画の物語は、バスキアというブルックリン生まれの移民系の黒人が、浮浪者のような生活をして自分の作ったポストカードなどを売りながら、次第にアーティストとして他人の承認を得るようになり、アンディ・ウォーホールと交友をもつようになって成功者となっていく過程を追っている。ウォーホールが死んだ後、理由も特に分からないが、目的さえも失うようになった、そもそも目的というのをバスキアが持つような人だったのかも定かでないのだが、生活に取りとめが無くなり、結局ヘロインのオーバードーズで27歳で死んだものだ。

浮浪者のような生活状態から、偶然の糸を手繰り寄せるように他人との出会いを積み重ね、自分の絵が買われることに成功するのだが、ほぼ無一文の状態から自分の名前がバイヤーや批評家に知られ、価値を帯びるように過程において、この映画ではすべてがバスキアの投げやりな交換の中で夢のように決まっていく。この交換が成立する過程の曖昧さやいい加減さにおいて、映画はバスキアの生涯を巡る決定的に重要なモメントを発見することに、すべて失敗しているものともいえる。美術について、交換の成立する過程についての描写が曖昧で適当であることから、この映画は最も肝心な要素を最初からないがしろにしている、無視している、ある意味不真面目なファンタジーに基づいて脚色された、画家の伝記映画である。美術について交換の成立する現場について忠実さが無いということと別に、それでは美術において作品が成立する過程の現場については、この映画は少しでも配慮を持つことができたのだろうか?

NYの町をうろつく見栄えも良くない若者としてのバスキアが、ウォーホールを町で見かける。ウォーホールがバイヤーと、リムジンから降りレストランへ入ったところを目撃し、彼らのテーブルに押しかけポストカードを売る。バスキアという一個の名前、一個の存在が、NYの美術系社交界を巡る流れの中で、価値を帯びて流通し始め、そして有名になっていく。映画では、バスキアはその過程で、殆ど自分が有名になったり金を獲得したりすることに無頓着なものとして描かれている。このように名声について頓着の無い素振りが、NYの社交界にとってクールなものとして映ったのかもしれないが、頓着の無さにおいて、彼には最初から失うべきものが特に意識されて有したこともなく、自分の築いていた価値も、簡単に失ってしまう、手放してしまう。

バスキアはそれらの事象を、まるで自分以外の出来事が目の前に流れていくかの如くに眺めており、常に楽観的であり、特に悲劇的な心境に陥ることもなく、取り乱すこともなく、淡々と眺めている。自己執着から自由な存在のようにして映画で描かれている。すべてがスラム街とリッチな社交界が隣り合わせに接するNYの奇妙な地理的条件の中の夢の出来事のようにして描かれ流れていくことをやまなかった。アートに向かい合う主体を、このように楽観的で暖かい目で包み込もうという心情が、この映画の意図にも当たるのだろうが、この映画から出てくる結論としての心情とは、成功してもしなくても、アートにおいて、それはどうでもいいことでないか、アートというのは、そこへ到達を目指していることの全体的なプロセスではないかと、確認を与えなおすものであって、アートの生産過程を巡るゴタゴタ、世智辛いものの存在というのは、映画にも出ては来るものの、それらは特にはどうでもないもの、一時は極端に悲劇的な心境が訪れるにしても、アートと人間の宿命にとってすぐに忘れることのできるもの、忘れてよいものになっている。あくまでも世界は門戸が広く、イージーに流し、拡散してよいものとして置かれている。結論としての楽天主義が、バスキア自身を愛するように、置かれている。映画の中で、この映画が捉われている象徴的な型を示唆するシーンとは、始めの方で、無名の若いバスキアとギャラリーの工事中に出会うウィリアム・デフォーの役柄であって、電気技師で、来年四十になるという彫刻家だが、自分は有名になれないでよかったとバスキアに語り、何故ならそれで現実を知れたから、と言うのだ。しかしここでデフォー演じる電気技師の口から出る現実という言葉も、また疑わしい安易なイメージの中で語られているのは、バスキアの示す浮遊性との裏返しの対になっているということでしかない、現実認識におけるマスの映画的な安易の構造でもある。

この映画の一貫した現実性のなさと現実性を放棄する姿勢とは、様々なロックミュージックが挿入曲として使用される時の、その中途半端さにも示されている。何処かで聞いたようなロックの有名な曲について、その触りの部分だけ、ミュージッククリップのようにして、再生させて、すぐに終わってしまう。また次のシーンでは、別のアーティストの別の曲が、特に脈絡もなく使われる。パブリックイメージとか、ストーンズのwaiting on a friendとか、トム・ウェイツのdancing Matildaとか。これら一つ一つの曲は、それぞれ異なる重さを持つはずなのに。この投げやりな使い方、そして半端な終わり方は、この映画が恐らく最初から意図もしていたのだろう、NY的アートシーンを流れることのキャッチーで軽薄なタッチの肯定感というのを醸しだす事になっている。デヴィッド・ボウイウォーホール役で現れ、デニス・ホッパーがバイヤー役で演じているのも、特に深みはなく、キャッチーなタッチで、彼ら文化的な有名俳優とは現れては消えていく。その半端で流れていく感じ、表層というには、中途半端すぎて表層にさえ到達しえないイメージの凡庸さとテレビドラマのような薄さにおいて、逆にバスキアの描いていた世界、あくまでも表象としてのマスとの接点で、イメージを薄さにおいて顕在化させていた。軽いものとしての流通形態が、バスキアの持っていた身のこなし方の軽さと、軽さの中の変則性と生成変化について、割と現実的に、この映画は伝えているのではないだろうか。監督したのは、ジュリアン・シュナベールという実際にバスキアと交流を持っていた画家の肩書きも兼ねている映画監督である。