歩行のリズム

年末から今まで特に何があったというわけでもないのだが時間が過ぎていった。大晦日から一日にかけて深夜に目が覚め漫然と時間を持て余していた。年末と年始は何とテレビが面白くないのだろうと思いつつ、CNNの英語ニュースを眺めたりしながら、朝が来てよく晴れた空は冷えた感じも強いのがわかる。年末の中途半端な祭りのような数日間に、ビデオも何本か見たが、特にこれといって言うべき言葉も見つからなかった。ビデオを見るのも労働なのだ。だらだら一本の作品を数日かかって見ていたり。それよりも最近は、短編小説を意識して研究していたり。今手元にあるのは、カフカの短編、ブコウスキーの短編、谷崎の短編、漱石の短編、そして昨夜読んでいたのはピンチョンの「スローラーナー」という短編集とか。一月一日の午前中はまさに虚無のような時間帯だ。テレビはどれも詰まらないし。駅伝をやってる。生中継だ。群馬県あたりで走っている。ランナーはタンクトップとパンツで息を切らしている。健康そうだと思った。他は漫才とかばっかり。笑いの芸の退屈さの中に身を持っていくのも億劫だと思った。家を出る。散歩を兼ねて。外は冷やりとするがいい天気だ。そして元旦の朝の虚無のような町並み。死んだような静けさ。空気が死のように澄んでいる。

隣の駅まで30分ほど歩く。ついでにツタヤにビデオを返しにいく。僕は自転車を使うことが多い。その前は車かバイクだった。歩くという行為が今まで余り好きではなかったみたいだ。それよりショートカットの方が好きだ。だらだら歩くという緩慢な時間と付き合う作業が苦手だったのだろう。これは日常の性質にも影を落とすものだ。しかし最近になって、歩くという行為を見直しつつある。主体的に取り入れつつあるのだ。歩くとは、思っていたより重要な行為である。まず、同じ距離を自転車で通過するのに比べて、歩くほうが運動量が圧倒的に多い。疲れも多いが、それはフィットネス効果もあるということであって、身体的な全身効果というのは、歩くという行為にはよく、完成された形で自ずから含まれている。歩く。風景と否応なく付き合う。これが苦手な時もあるのだが、あえて自分の環境を取巻く風景というのに向かい合ってみる。

散歩とは、効果である。散歩には、独特の思考があるのだ。それは遅い時間を生きる思考である。緩慢なリズムであるが確実に機能している。散歩には散歩独自の思考がある。また車のドライブには、ドライブ独自の思考がある。散歩の遅いリズム、そして身体的な全体効果というのが、実は独特で重要なのだ。散歩の思考とは、散文のリズムに近い。あるいは散文そのものかもしれない。この遅いリズムでなければ、捉えきれない物というのが、あるのだ。

十時に家を出て、ダラダラとして行ったら、ツタヤには十一時前についた。本日元旦の日は、昼の十二時から営業みたいだ。駅前であいてる店を探すが、さすがに一日のこの時間午前中にやってる店は少ない。駅前のサイゼリヤへ。いつもは混んでるこのイタリアンレストランもガラガラである。お客もなんかわけありという感じというか、なんか場違いに暇をこの時間に持て余している、一人きりのおっさんとか、おばさん、お姉さん、カップル、そして必要以上に薄着のタンクトップのギャルの三人組とか。空いているレストランの席の空間を余裕気に大胆に使いながら、スープとホウレン草のグラタンを。十二時までまだ一時間もある。空虚な時間を持て余していた。しばらくして外へ出る。駅の周りを一周する。昼近くなって駅には人が多くなっている。十二時ちょうどにツタヤへ。ガラガラのツタヤ店内を見回しながら思った。

TSUTAYA文化か・・・。今時の主流の、最も機能してる日本の文化的な体制とは、要するにツタヤ文化なのかと考えた。確かにツタヤはすごい。時間が幾らあっても足りないほどのコンテンツが、この店内に詰まっている。収納されている。マイナーな映画コンテンツでも簡単に手に入る。しかも平等に。すごい文化体制だ。たしかツタヤとは、楽天の三木谷さんが興銀時代に手掛けた企業なのだ。ツタヤに感謝すべきなのだろうか?一応けっこう感謝もしている。普段お世話になっているから。文化資本とでもいうべきものの、微妙な重要性と機能について、しばし思いを巡らせた。それは資本の積極的意味とでも呼べばよいのだろうか・・・。資本と文化、文化と資本、資本と文化、そして社会と環境、・・・。シュヴァンクマイエルの一番新しい映画を一本借りた。帰りは、来た道とは違うルートを辿って自宅まで。もう昼過ぎの一日の温度は、僕の散歩にとっては暑すぎる位だった。町行く人も多くなった。休日ののどかな昼だ。小さな娘を二人連れた真面目そうなお父さんが、住宅地の中の曲がりくねった道で、僕の前をずっと歩いていた。