寓話という形式の意味について考え直す

最近よく重宝して参照してる本に『カフカ寓話集』という岩波文庫があるのだが、寓話、要するにallegoryかfableということだが、それが何だか僕には今までよくわかっていなかったことに気付いたのだ。寓話とは何かといえば、小話で語ること、しかもそれはよく凝縮された小話であり、そこには語りの構造が明瞭に見て取れるものであるはずだ。更に言えば、寓話の発生とは、最も原始的なコミュニケーションから、知恵の伝達手段に基づき、何か、構造の意味なり、教訓なり、道徳的訓示なり、認識の形を、喩えによって示すことであり、寓話にはそれなりの分かりやすさが備わっている。また一目では分かりにくいような、謎かけ的な寓話から、魔術のような寓話、一般了解的な訓示から発展して高度な寓話のケースというのもあるはずだ。そういった寓話は、分かる人だけ分かるといった、秘教的な難解さから暗号的な性質まで含むだろう。

しかし、寓話にも話の構造としてのレベルの高低が様々あるにしても、その発生においては、話を語ることの、意味を伝達することの分かりやすさに基づいているものであって、その最も根幹的な部分には、特に変わりはない。このような意味の原初的な発生において、基礎となる形式とは、その話が、何かのアナロジーに基づくというものである。アナロジーによって、原初的に、分かりやすく、そこにある意味の構造を照り返す。これが人間のかなり原始的な社会の段階から、寓話という語りの機能、語り伝えの機能が、果たしていた役割である。

寓話の発生から体系化において、最初にまとまった役割を担ったものとは、要するにイソップの寓話である。古代ギリシアの奴隷階級の人間であったと言われている、イソップ、またはアイソーポスと読まれるが、(イソップは英語読みで、アイソーポスのほうが正しいらしい)彼によって纏められた、初期の寓話の体系がある。いわゆるイソップ寓話集であり、子供の頃の馴染みで言えばイソップ童話集というものである。その中には、本当に基本的に分かりやすい喩え話の数々が既に詰まっており、アリとキリギリスの話から、北風と太陽の話、ウサギと亀の話、三本の棒を折る話とか、今でも子供達が、最初に文学的な認識の体験として触れるべき話の構造が、既に完成された形で、古代ギリシアの文献として出来上がっているのだ。

そして、寓話−即ちアレゴリー的な語りの価値というのを、近代的なプロセスの何処かのポイントで取り返すものとして、ベンヤミンアレゴリー的認識論の発掘という仕事が改めて気付かされるものだ。ベンヤミンによって発掘されなおしたとき、そのアレゴリーというのは、人間史にとって原初的なものというよりも、近代の裏の意味を示すものとしての秘教的なもの、仕掛として見出された。しかし小説一般について考える時、原点として、この寓話的構造というのが、必ず再帰されるものだと思う。ベンヤミンは、バロック期芸術の発生とアレゴリー技術の同時性を見ている。現代小説についてざっと見たとき、寓話的要素というのは、二次的な機能であり、余り前面では目立たないものになっているのかもしれない。しかし語りにとっての意味とは何かを考えた時、あえて小説で語るということは、必ず寓話的存在の意味について、再び戻ってくるものではないだろうか。

現代の小説形式において、意識的に寓話形式が成立させられている作家として、ブコウスキーの取っていた形式というのは、まさにそれに当たっているだろう。ブコウスキーの短編小説とは、明らかに現代おける寓話的な構造と意味を担い、示している。現代においても赤裸さまに寓話が可能なら、まさにあのスタイルのことを云うのである。しかしブコウスキーの短編のように明らかな寓話とはいわないまでも、一般的な形式で小説によって語ることが意味を帯び始める時、そこには何らかの形で、寓話的存在の社会的位相と意義が、改めて強調され自らを示すものだと思うのだが。例えば、カフカの遺した作品群には、未完のものが多いのだが、寓話が多く含まれている。カフカは寓話形式によって、自分の思考を語ろうとしていた。カフカの奇妙な想像力の生い立つ為の源泉、構造とは、寓話形式にそのベースを負っていたのだ。おそらくカフカにとって、寓話的な意味のマトリックスから膨らませていった先に、彼の長編小説の奇妙さから、奇妙な構造的統一性までが成立している。もし、カフカの示した世界像の分かりやすさ、普遍的な共有されやすさということがあるのなら、その母体となっているのは、カフカ自身が書くとき前提としていた、歴史的な寓話の基本構造、そのシンプルな構造と意味にあるのだろうと思う。