『フラガール』

以前に『69』を撮っている李相日監督の作品である。昭和40年における福島県の炭鉱町。炭鉱は閉山を間近にしていた。寂れつつある炭鉱町は次の産業を興す必然性に迫られている。新しくレジャー施設を建設する計画が持ち上がる。常磐ハワイアンセンターの実話を元に作られた物語である。炭鉱を中心に出来上がっていた町は、あらゆる意味でこの計画によって変更を迫られた。それは産業構造の変換であるとともに、町の構造自体に変化をもたらすものとなった。この変遷の過程を、ハワイアンセンターの目玉として企画されたフラガールの誕生するストーリーとして描写される。

炭鉱はかつて日本の産業を支えてきた歴史がある。もちろん産業の栄えた場所には、それを中心にした町の構造があり、人間関係の構造があった。炭鉱労働を支えることによって成立した町とは、労働者の肉体労働を支えるべく、堅い結束性の共同体を作っていた。長屋で彼ら家族の生活は営まれ、労働者を中心にして酒場は繁盛し、町は回転するようになっていた。繰り返されてきた労働争議は、仲間と道徳観念の証だった。労働者の町は、レジャーセンターによって町の構造が変わってしまうことに、もちろん戸惑いを覚えていた。レジャーセンターの看板にしようとしたのは、ハワイアンを踊るフラガールの創設である。町の娘達をかき集めて、東京から来たダンサーをリーダーにしてチームを結成する。ダンスを教えるためにやってきた女性を松雪泰子が演じる。松雪泰子が、田舎町の娘に対して、ナルシズムとプライドの存在について啓蒙をすることになる。

それまで労働者の町で紐帯を作っていたのは、労働組合的な連帯性である。それはこの町で道徳観念の中心にあたった。フラガールの一団が新しい町のイメージとして出てきたことは最初、町にとって堕落に見られた。町の中では、フラガール団に対する抵抗がいろんな形で起こる。フラガールが、炭鉱の町、労働者の町にもたらした変化とは何だったのだろうか?同一の身体的な労働によって人間性を形成していた町の結束性に対して、フラガールのイメージは変化をもたらす。それは労働者中心主義的な世界観に変更をもたらした。フラガールとは、一歩間違えれば、ストリップやポルノと見間違われる。フラガール的なものを導入することは、田舎町の構造にとって危険を伴う。人間にとって、価値とは労働によって形成されるという信仰の中に、炭鉱の町はある。そして労働とは、厚い人間的な共同性の上に成立する。フラガールもやはり、立派な労働ではある。しかしそれは何を生産する労働なのだろうか。生産中心主義的な価値観に覆われていた町の信憑性は、フラガールという新しい労働形態にショックを覚えたのだ。それはストリップと何処が違うのか?町の娘達を堕落に導くつもりか?しかしフラガールは町で裏的な経済を作るものではないのだということを、グループの人々は証明しなければならない。

炭鉱の町にフラガールがもたらしたものとは、新しい生産の形態である。新しい人間性と社会関係の形態であり、新しい名誉のスタイルだった。それは視線の構造に柔らかなバウンドを与えた。それまで単純で直線主義的なものが主だった町の中にある視線の構造は変わった。人々の視線の持ち方が変わると、そこでは道徳観念までが変わる。フラガールが町の人間にもたらしたものとは、眼差しの快楽である。ナルシズムのイメージが、人間のイメージから関係の構造までを変化させたという経験である。それは決して下品で日陰的なものの流通経済ではない。フラガール自体が町の新しいイメージになる。この変化は、町の人間関係の構造まで含めて、あらゆる意味で変革することになった。ナルシズムであっても、罪ではない。それは労働生産主義経済の中にあった町の共同主義的な体質に対して、新しい自由のイメージをもたらした。労働の新しい形態を作り出した。そして視線の新しい形式と、喜びの新しい形式である。

昭和40年の前後で日本に起こった、人間性を巡る構造的な変化の模様を、映画『フラガール』は描写している。それは人間の捉え方自体が、そこを前後にして明らかに、時代的に変わっていった変遷の過程なのだ。近代の延長線上に、社会にとってこの変化は必然的であり、必ず通ることになる。労働と生産と価値を巡る、社会的進化の一過程である。このポイントを中心にして、時代的な人間性のイメージとは必ず変わるのだ。そして社会には自由の導入がより本格的に訪れることになる。