高橋源一郎−読みのトラウマから巡り、発信する

  • 日曜日は、ナベサクさんid:nabesakuに誘われて早稲田まで文学の講演会を聞きにいった。高橋源一郎と望月哲男のレクチャーで『テクストと読者―<読み>のあり方を問い直す―』というものである。前に高橋源一郎の講演を聞いたのは88年の秋か冬だったから、もうそれ以来、19年ぶりである。特にその間時間がたったという気がしていないのだが、これは僕の感覚がやばいのだろうか?やはりあの時も早大で聞いたのだ。彼が話している問題意識とは、前と変わっていないと思った。この人はやはりこの二十年近くを、同じ問題を考え抜いてきたのだろう。それは「読みのあり方を問い直す」という問題であり試みである。ただ彼の語り口は豊富になった。論理的な明晰さも理論的な統一性もより深みを増した。同じ問題を考え続けてきて、そこに体系的な根拠を示し、重層化して説明しつつ、余裕で高橋源一郎は語っていたのに僕は感心した。そしてその間の時間の流れに軽く思いを馳せた。
  • 読みのあり方を問い直すとき、高橋源一郎は、彼の世代に特有な、時代の事件性が刻印した、ある体質に対してそれを語っている、僕は最初からそのように感じていた。高橋源一郎の抱え込んでいる問題性、特にテキストを巡る問題、読むという行為を巡る問題だが、これに気が付くことが出来る人というのは、僕の世代ではもう相当稀であるはずだ。しかし僕はある種の特殊な体験によって十代を過ごしてきたので、彼が何を問題にしながら語っているのか、一発で気づいてしまった。・・・いや・・・そうわかったような気がしたのだ。自分だけが特別にわかってると思ってしまうこと自体、読みによくありがちな落とし穴ですよとは、高橋源一郎がよくネタにする笑いでもあるのだが。
  • まず、高橋源一郎トークは、テキストにとって、読みが開かれているとはどういうことか?という問いかけからはじまった。(これも80年代の講演のときと同じだった。)よく、文学がわかる、というけど、しかし文学がわかるとは、その実、どういうことなの?と彼は語りかける。このテキストの仕掛がわかるとは?文学とは、特定の人にだけわかれば、それでよいものなのかと。まず、文学が暗黙で秘教的なメッセージを含んでいると考えられるとき、これはテキストが読める人と読めない人とに明らかに分かれることになる。文学的なテキスト、テキスト的な仕掛とは、歴史的に言ってもそのようなカラクリによって示されてきた事は多かった。もちろん前提を共有することによって、暗黙の理解を求めるというのも、文学テキストにとっては一つの在り方である。文学がそのような暗黙性、秘教性を含んでしまうこと、含みながら歴史的な機械として機能してきたことは否めない。文学とはそういうものだったのだ。
  • それではテキストにとって、その意味とは固定できるのか?著者の意図とは、物質的に外在化されたテキストにとってはどのような意味を帯びるのか?そもそも外在化されたテキストにとって、著者の意図でさえもどの程度の支配力を帯びるものなのか、外在化された子供のようなテキストとは、運命として著者の思い入れなど、いとも簡単に離れ超えて行くのだし、そもそも著者の意図と云われるものさえ投影されたフィクションであるには変わらないのであり、あてにはならない。そこで高橋源一郎にとって試みとは、テキストが最大限に誰にでも開かれてあるとは、どういうことなのかという問題になるのだ。高橋源一郎は「いちげんさんの読者」という言い方をする。文学という前提を何ももたない素人がそれを読みに来ても、何かがわかってしまう、共通のエッセンスを把握してしまう、そのようなテキストが別に理想的とはいえないにしても、テキストを普遍化し開いていくとは、読みの立場にしても、書く立場にしても、そういうオープンソース化の試みではないのかと示すのである。テキストにとって、前提を共有しない他者に対しても、伝えることのできる立場とは、どのようなものになるのだろうか。
  • このとき高橋源一郎の問題意識にとって、その起源とは何処にあるのだろうか?彼の経歴を振り返ってみよう。左翼活動に関わり大学を中退して以来、彼がいうには、自分は10年間本を読まなかったのだと云う。中核派だったとか、その間肉体労働をしていたとか、いろいろストーリーはあるのだが、この若いときの左翼体験が、彼にテキストの読みを巡る、ある決定的なトラウマを与えたのだと考えることが出来るだろう。特に、革共同の事件などを巡る特徴的な体質にとって、テキストとの関わり方がどのように歪に抑圧を受けるか、という時代的に覆っていた病巣の問題があるのだ。彼はそこで、テキストと読みが固定化され硬直化され、限りなくそのスピードが先送りされて遅鈍となり、死んでいく過程を幾つも目撃しているのだ。そして読み方が死んでいくとき、同時に生も死んでいく姿である。僕は彼とは相当世代が違うが、この左翼陣営を巡る、読みの抑圧体制の実在、読み方によって発生するミクロファシズム、テキストを巡る神学的抑圧については、遅ればせながらやはり体験があり、思い当たることができる。テキストと読みと、そして特に「主体性」を巡るある病的な意識の、システマティックな実在である。*1
  • 10年間の読書ブランクを経て『さよなら、ギャングたち』でデビューを果たした高橋源一郎にとって、この読みを巡るトラウマの実在から、現在に至るまでの、読みの救済を巡るテキスト論的思考が、彼の仕事を根拠付けているのである。そしてこの読みの救済とは、そのまま連続的に、書くことの救済から、生きることの救済にまでダイレクトに繋がりうるはずなのだ。新左翼の時代に、意識と主体性の帝国によって抑圧されたテキストの無意識的な実在を、解きほぐし、救済し、開いていくこととは、文学的伝道としての高橋源一郎的な使命にもなっているはずである。
  • しかし高橋源一郎は、こういうエクスキューズもつけるのだ。近代とは何か、特に近代文学とは何かという問題を振り返るとき、それは先行する抑圧に対して否を云う事によって、基本的に近代性とは存在してきた。キリストが実は最初の近代性なのだという説がある。それはキリストが先行する支配体制に対して、最初に否と言ったということである。しかし日本の社会が世界的に先取りして実現しているのは、この先行する抑圧性の不在という現象なのだと。高橋源一郎的な伝道とは、60年代から70年代には確実に実在した、読みを巡る抑圧体制を退けるという動機があった。しかし世代が下るに連れて、読みだけでなく、政治においても、生活においても、否を云うべき時代的抑圧とは、もうどんどん自然消滅しているのが実情なのだ。政治の消滅、それが日本の現在を特徴付ける現象である。このような無重力の場所で、文学にとっても、表現一般にとっても、いったいどのようなアートが現象しているのか?それを幾つかのポイントを確保しながら、定点観測的に測定しているのだという話で、高橋源一郎のレクチャーは終わる。そしてこれも実は、昔の早大講演と同じ構造だったのだと、僕は記憶している。

*1:例えば、ケン・ローチの『麦の穂をゆらす風』にしても、あの映画を見て今更のように新しい発見でもあったかのようなことを触れて回る日本の人は何処かおかしいのだ。というか明らかな記憶喪失でありサイコパスである。若い人があの映画を見てショックを受けたというのならまだしも、いいトシ食った旧−新左翼的な連中があの映画に今更のように感銘受けましたと触れ回るのは、馬鹿げている。何故なら日本の文脈においては、あの映画に出てきた問題性は、最も露骨でリアルな事件として、自らの問題性として抱えていたのは明らかである。ケン・ローチを引用するまでもなく、今更ながらIRA的な問題を発見のように語るのではなく、日本の人々ならば、単に『中核VS革マル』のような本に触れれば、そこには同じ問題がリアルに横たわっているのだから。立花隆のあの本について、拒否感を示す人はまず、立花の書き方、内ゲバの描写の仕方が、興味本位だとか、脚色した描写が悪質だとか言うのだが、若い頃の彼が持っていたそういう傾向、流されやすいような傾向をすべて括弧にくくるとしても、読者の立場から批判的意識がしっかり持てれば、あの本からも相当の現代史的事実を抽出することは出来るはずなのだ。だから史実を知れるかどうかは、読む立場の者の問題。何も同じ問題について今更、海の向こうのIRAから学ぶとかいう話でもない。むしろ同様の問題、要するに内ゲバの問題を日本にも、つい最近の時代にあった事実としては隠蔽してしまうために、旧−新左翼的な引き摺りが自己正当化しながら、ケン・ローチを持ち上げてみせるという茶番にしか見えないだろう。