権力のゲームと普遍性概念の所在

1.
権力批判として現れた世界性の観念も、いつでも再び権力の側に転じうる。どちらがより包括しうる大きな世界性を示しうるかというのは、それ自体権力の交替を巡る社会闘争の条件になる。一次的に権力の立場から誇示された世界性を、ネガティブに転じることによって、次の世界宗教の観念が示される。それは他者を包括することによって成立する世界性と、他者の他者的開示によって示される世界性の間で変転を繰り返す。

権力を自己拡大に導く世界性の勢いではなく、むしろ自己拡大を阻止し、他者性の次元の導入によって、世界性の構成を全体的支配に対する抵抗的なものとして持とうとする。全体と個体的生命とのあいだの関係が逆転する。他者の包括的許容が世界性なのか、それともその他者の向こう側に突き抜けるためのメタなる他者性へ至る否定的克己を主体性として提示することが、また更なる世界性なのか、世界性の存立レベルとは、何度でも入れ替わるだろう。

世界性の観念がそれ自体、ネガティブな次元からポジティブな次元へとたえず入れ替わるのは、政治的な問題として、世界性の次元と普遍性のイメージが、歴史的な政権交替運動から革命運動までの主要なファクターとして機能してきたからである。そこでは最初に説得力をもって示されたように見える世界性の観念であっても、政治的な力学の中でいつでも結果的につまらないものへと堕落しうる。

2.
世界性の開示とは、歴史的な宗教的戦争の過程まで含めて、革命や政権交代の条件であり続けた。自己宗教の内部でその交替が起きるときというのは、まず論理的には、その宗教の開祖と云われているものの次元にまで回帰する、原理主義的な復帰運動として現れる。

キリストに還れ。仏陀に還れ。イスラムの原理に還れ。またマルクスのポイントに還れ、というようにである。また戦争の過程で征服によって宗教が別の宗教に呑み込まれるときもあるし、革命運動である場合は宗教そのまま入れ替わったり、共産主義の樹立が宣言される、ブルジョワ的共和体制が発足する、自由主義的政権が立つということになる。

結局、柄谷行人にとって世界性という言葉の意味は、彼の他者という概念の用法と同じく、特殊な意味を担わされていたことがわかる。普通に、世界、世界宗教という言葉で流れているイメージとそれは相当異なっている。そしてこの両義的な意味の混同とは、ある意味、彼の狙っている曖昧さでもあったはずなのだ。世界という概念、そして他者という概念に、踏み誤りやすい妙な両義性を担わせること。

2.

共同体(同一化)の成立と同時に、システムの内部と外部の分割が生じ、境界が生じる。それ以前の交通空間、つまり内も外もないような空間は、このとき「外部」、いいかえれば、諸共同体の「間」にあるとみなされる。しかし、いかなる共同体も、実際には、完全に自閉的ではありえない。ミッシェル・セールの比喩を借りていえば、共同体(固体)は、いわば液体のなかに浮かんでおり、液体に浸透されている。共同体において”抑圧されたもの”は、いわば内と外の区別がないような空間(液体)である。したがって、「抑圧されたものの回帰」は、共同体にとっては、必ず「外部」から、且つ、「外部」への強迫としてやってくる。  モーゼにおいても、イエスにおいても、あるいはその他の世界宗教においても、喚起されているのは、このような外部性であり、そしてそれは共同体を脱構築する力として働いている。もちろんそれはただちに共同体の内部に回収(同一化)されて、物語となるのだが。
『探究Ⅱ』243p

柄谷にとって世界の開示とは、単に規模としての拡大ということを意味しない。世界の開示とは他者の他者性へと疎通することであり、それは抑圧されたものの回帰として認識される他性の存在である。共同体の成立、そして個体の確立−確定の時点で抑圧されていたものが、事後に強迫的に回帰するという経験によってそれは知らされる。

抑圧されたもの、あるいは死んだ他者といってもいいが、その回帰する認識に捉われるが故に、そのような世界認識とは宗教的なものとして歴史的には表現を与えられてきたのだ。抑圧されたものの回帰とは、それ自体、亡霊的なものの認識経験である。

3.
柄谷行人世界宗教の出現する必然性については結局、それが共同体を脱構築する必然性に迫られた時に発生する運動であったと述べている。共同体を強迫するもの、外部の存在を強いるものとは、それではいかなる理由で現れるものなのだろうか。柄谷行人がここで説明に使っているものとは、「ユダヤ的なもの」の歴史におけるモーゼの位置の謎である。

柄谷行人が分析しているのはフロイトのテキスト『モーゼと一神教』である。フロイトによれば、モーゼによってユダヤの民にもたらされたところの特質とは、偶像崇拝の禁止に集約されうる。そしてユダヤ教の実質とはここのポイントに与えられたと見れる。「モーゼの存在がもつ両義性とはユダヤ民族にとって、律法による神経症的拘束を与えた者であり、同時に偶像崇拝の禁止によって知的・精神的解放を与えた者ということにある。」

フロイトの仮説が重要なのは、原父を想定することによってトーテミズムを説明するだけでなく、それをディコンストラクトするような世界宗教の出現の不可避性を説明しようとしている点である。世界宗教は、共同体宗教とは別に突然奇跡的にあらわれたものではないし、たんに交通の拡大によってあらわれたものでもない。その強迫的な性格はどこからくるのか。フロイトは、世界宗教を「抑圧されたものの回帰」とみなす。私はそれに同意する。しかし、抑圧されたものは「原父」のようなものではなく、いわば「社会的なもの」である。
『探求Ⅱ』242P