世界性の起源

1.
他者と対峙するにあたって、宗教的に問題を見るやり方として、まず大前提としての、

1)他者を殺してはいけない。
という一次的なる根源命法があり、

2)しかし実践的には、他者を殺さなければならない。(そういう時も必ずある。)

しかしそのとき行為の宗教的代償とは、目前の他者を殺すことが、未来の他者=未来の人類に向けた交換として意味のある場合である。

この二つが考えられる。このとき、他者を殺す、というのは別に本当に殺すことだけを意味しない。現実的には、他者を潰すというのであれば、社会的に抹殺させる、他者を精神的に潰すなど、他者に対して壊滅的な攻撃を加える事として、これは今の世の中でも、いつの世の中であっても現実味のある人間関係の話になりうる。

他者を精神的に潰すということであれば、共同体的な工作や排除によって幾らでも有触れてる話として、その現実性について考えることができる。特にNAMの場合であれば、表面的な非暴力主義(ガンジー主義の標榜)というのは、別の形で他者を抑圧する方法論、別の形での経済的封圧として流通過程で排除させるという工作論に、戦略的に置き換えられることになる。ボイコットという隠喩で意味されてきたのは、そういう仕組みであるといってよいだろう。つまりそれは現実には、抑圧の更なる巧妙な形態を、形式的非暴力の標榜によって組織的に演じることになるのだ。(これはNAMという組織と原理の裏の側面にあたる。また柄谷行人という人物の恐ろしさである。)

2.
スピノザによって開示される世界性といわれてるもの、またカントによって開示される理論的世界性とは、1)の世界性のレベルの話である。この理想的条件を理論的提示することによって、普遍性としての世界性といったまでのことである。しかし彼らはあくまでも理論的次元で世界性をといただけで、そこに宗教が現実に機能するときの側面とは薄い。1)の次元にある理念性を普遍として捉えるレベルとは、当然の如くに、それは既成の宗教批判としての論説になる。

それは、権力を批判するものとしての宗教と神学意識を説く。既成宗教を批判するものとして、更なる理想的レベルの普遍性の開示を説く。彼らは別に動かなかった人なのだから、それは当然のことなのだ。スピノザが実践性ということを問題にしたとしても、それは私的な実践性であり私的であるが故に自由を実現できるといったレベルでの話にとどまったのだ。私的であるが故に自己を普遍的だと認識していられること。つまりそれは柄谷行人では、『探究』?、?のレベルにあたる話であり、単独性の実践という事をいえば済んだ話のレベルである。

宗教が歴史の中で動くとき、その現実性において宗教を定義しなおすのが、次にヘーゲルによってなされることになる。つまり理念的次元と現実的な宗教のはらむ戦争性の間を埋めるものとしての、2)の論理の実践である。類的な共同存在に運命を刻むべく託された組織的運動として、宗教が実践されるとき、そこにある矛盾をどう乗り越えていかなければならないかということが、そのとき明確に理論化される。

このとき宗教とは権力と手を組んで実践的に動き出す。スピノザはまだ宗教の国家的な現実の中枢に手を染めようとしないから、机上の世界性の中にとどまることができただけともいえるのだ。ヘーゲルは実際、スピノザをそのように批判している。柄谷行人の場合、明らかに彼の立場とは2)のものであり、彼は組織的で原理的な実践性としてのマキャベリズムを用意していた。ヘーゲルに限らずこの種類のマキャベリズムは、なによりもマルクスのものでもあったわけだから。

3.
宗教をその全体システムにおいて鑑みてみよう。1)の理念的条件『他者を殺してはならない』と、2)の実践的条件『しかし他者を殺さねばならない』とは、宗教システムにとって両軸にあたるものである。宗教が社会の統治を可能にする場合は、必ずこの二つの条件がうまく実践的に包含されながら機能するものだ。

現在の巨大なキリスト教的統治のシステムとして、アメリカ国家の場合を見てみよう。イラク戦争を実行したブッシュ政権にとって、バース党支配下イラクとは制圧されねばならなかった。理由はいろいろあるが、主な理由は世界的な治安の問題ということになっている。同時にブッシュ政権の依存する母体になっているキリスト教原理主義団体にとって、生命の尊重という観念は絶対的なものである。彼らは安楽死の医療的措置に、宗教的な理由から反対する。中絶にも反対する。

普遍性を宣言するもの、世界性の開示にあたって、そこには常に二つの条件が忍び込んでいるものとなるのだ。一つは権力の立場から宣言される世界性の意識である。(現在ではグローバリズムともいう。)統治的権力がまず一次的に開示し、強制力としてもたらすものが世界性である。世界性とは人間にとって道徳的な共生観とパースペクティブを指示する。全体性の観念を開示する。それは統覚的な全体像としての人間のイメージを明らかにさせる。

しかし二次的に、統治権力を批判する側からの、世界性の批判が生じ、別の意味での理念的世界性が提示される。それは新しい全体性の観念であり、また全体性の批判でもある。それは権力批判としてあらわれることになる世界性の観念であり、現世的には不可能なものに根差している世界性であるがゆえに、未来の人類という観念に連結されて示される。(あるいはより原始的にはそれは来世ともいわれる。)

4.
世界性というとき、そこには必ず二つの立場が交じっているのだ。世界性について類的な共生観念によって道徳的に媒介するものが、歴史的な宗教のシステムの存在である。二次的に発生する世界性の意識、倫理的で哲学的な思弁性として示されうる新しい世界性の意識とは常に、一次的に与えられた世界性の意識に依存し、その批判であり、転倒として出てくる。

一口で宗教というとき、必ずこの二つの側面が含蓄的に絡み合っているものだ。世界宗教の存立とは、この段階的な認識の階梯によって常に媒介されている。この媒介性を見ることなしに世界宗教の根源を見ることはできない。普遍性の宣言とは、まず一次的に必ずそれは権力の立場から為される。それは権力が統治を可能にするための条件として最初に発達するのだ。

権力の自称する世界性とは、それ自体が自己増殖する価値として、資本主義の流れに乗り、展開を遂げる。彼らは自ら征服した土地の上に、普遍性という看板を常に書き換える。資本主義的増殖に下部構造として支えられた世界性の意識とは、精神的システムとしても強固な文化性を保ちうる。その文化の内実とは、自己拡大する自らの内的な勢いと欲望を反映させる。それに対して権力の世界性を批判してあらわれる世界性とは、権力の自己増大する勢いを止めるものとして自己を主張する。

権力的支配の網目の中で、ネガティブな次元に巣くうものとして認識され、それは出てくる。それはポジティブとしての権力的世界性に対するネガティブな世界性の理念的な構成である。それは権力によって抑圧された次元を回帰させようとする欲望に存するものであるだけに、与えられた秩序というよりも理念性に基づき、その存立根拠とは本性的にマイナーである。現勢的な権力のあり方に対して潜勢的なものとして存在するしかない。

この現勢的な世界性と、潜勢的な世界性について混同してはいけない。柄谷行人が『探究?』において「世界宗教」という名目で示している世界性とは明らかに後者のものである。しかし世界性意識の存立とは、その両側面の片方だけで存在しうるものでは決してないということ。世界性という言葉のもつ両義性には罠があり、そこには注意しなければらない陥穽が含まれうるということなのだ。