世界宗教の問題

1.
柄谷の定義する他者とは幾分、特殊な他者の規定を用いている。

『探究Ⅰ』において、私は、コミュニケーションや交換を、共同体の外部、すなわち共同体と共同体の間に見ようとした。つまり、なんら規則を共有しない他者との非対称的な関係において見ようとした。「他者」とは、言語ゲームを共有しない者のことである。規則が共有される共同体の内部では、私と他者は対称的な関係にあり、交換=コミュニケーションは自己対話(モノローグ)でしかない。一方、非対称的な関係における交換=コミュニケーションにはたえず「命懸けの飛躍」がともなう。私はまた、そういう非対称関係における交通からなる世界を「社会」よよび、共通の規則をもち従って対称的関係においてある世界を「共同体」と呼んできた。
『探究Ⅱ』201p

探究ⅠからⅡへのプロセスとは、主体にとって遭遇する予定である他者について、その位相を明らかにしていく過程であると読める。それは他者意識の進化過程である。他者の進化とは、そのまま主体の側の意識的な進化に対応している。他者の発見する契機はどこにあるのだろう。まず身近な他者、それは外国人であり、子供であり、自分と言葉を同じくしないもの、すなわち規則を共有しないものとして見出された。他者の発見とは主体にとって、自己の境界としての独我論的境界性を見出す。

それでは他者とはどこにいるのか。あるいは他者が決して実体的なものとしては与えられない体験のことであるのだとしたら、それはどこで可能となる体験なのか。他者と遭遇する場所として見出される場所とは、交通空間である。

「探究」のプロセスにおいては、遭遇されるはずの他者のレベルとは研ぎ澄まされ、進化していくことになる。最終的には、他者を精神的に媒介するシステムとしての宗教が共同体の宗教であることを超え、世界宗教として出現しようとするプロセスを見ようとしているものだ。他者性の発現する交通空間とは、共同体と共同体の間に生じる。この間で起きる出来事とは、商業的交易であり、市場の形成であると想定される。

2.
しかし世界宗教の必然性とはなんだろう。柄谷にとって世界宗教の出現する必然性とは、他者体験が普遍性のレベルにまで高まることの必然性なのだ。しかし柄谷はその必然性について説明することに成功しているのだろうか。それは世界性という意味をどう捉えるかという問題にかかっている。ここでは最初に世界という言葉の意味をその単純なレベルの時点から考えてみよう。

宗教が世界化するための必然性とは、共同体と共同体の間に生じる緊張関係に宿る。異なる共同体を発見したとき、それを征服しなければ、自らの共同体は他の共同体にやられるだろう。食うか食われるかの必然性は、部族間、国家間の戦争を常態化させる。

一個の共同体からその進化形態としての国家形態が、戦争を持続し勝ち抜くため精神的必然性とは、民衆を密に組織することのできる、熱狂し、陶酔しうる連帯感を与えることの出来る強い宗教をもつことである。勝つための国家を自己正当化し基礎付けるための、世界宗教から普遍性意識の形成は、共同体の内部的な展開だけからは出てこない。それらは征服の欲望と戦争の欲望に転化されたときに、裏の側面から補強するシステムとして宗教的にも体系化され、開花している。

3.
普遍性の意識とは内的な必然性からは出てこない。それは戦争的で植民地獲得的な国家の拡大するための意識、そして歴史のある時点からは、資本主義として自己増殖する価値の自動的な流れに連動してきたとき、主体=意識が世界を手に収めようとして出てきた精神性システムのはずなのだ。このとき、戦争を強いるものとして内部の支配体系=意識体系に働きかけるもの、その脅威、それこそが外部の存在にあたっている。

共同体からはじめるかぎり、貨幣の社会性=無限性を説明することはできない。同様に、それは世界宗教を説明することはできない。世界宗教があらわれるのは、いわばつねに世界市場においてである。ベルグソンのように、閉じた社会が先ずあって、世界宗教によって開かれた社会になるというのは馬鹿げている。世界宗教の「世界性」は、内/外のない交通空間の回帰、フロイトのいい方でいえば「抑圧されたものの回帰」なのであり、したがって、それは共同体的世界に対して強迫的にあらわれる。だが、それを共同体の強迫神経症的性格と混同してはならない。その強制力は、”社会的なもの”の無限性に由来している。
『探究Ⅱ』307p

宗教の発生から進化を系譜的に見てみよう。宗教は外的な強制力によってその都度進化を遂げる。宗教における世界的パースペクティブの発展とは何を契機にするのだろうか。世界宗教を要請したものとは、まず戦争である。戦争は武力によって他国を支配しようとするものだ。武力による支配と同時に精神的な支配の正当性を与えるものとして、宗教は単に土着的なレベルにとどまらずに体系的発展を遂げる。

そのとき宗教とは経典として体系化し論理的な整合性を強固にして練られていく。勝っていく国家、すなわち帝国になる国家のための宗教とは、異国の他者を支配できるだけの深い自己正当性=論理性と体系的巨大さを所有していなければならない。それは宣教師を教育することによって、異国への精神的な説得=啓蒙活動を実践する必要がある。

帝国化した国家の支柱としての国教になる宗教とは、世界的なパースペクティブを発達させる。それは最初に出現する一次的な意味での世界宗教の宣言である。武力支配に並行する精神的支配とは、完成された形態において、それは愛の支配として、支配形態の最終的な正当化がなされている。このとき支配は愛に置き換わるのだ。なぜ、あなたたちは支配を受け、一体化されなければならないのか?それは我々と共に、主の愛に包含されるためである、という理屈で支配形態とは完成されるのだ。特に歴史的にはそれは、キリスト教の拡大するプロセスにおいて顕著な、よく出来上がった形式として現れた。

4.
日本にも中世から近世にかけて、そのようなヨーロッパ社会の版図拡大のために、まず宣教師が日本に到着したのだ。仏教の伝来したプロセスにも同じものがあるとして、それら宣教師や渡来僧において、彼らが帝国支配からは自立した純粋な精神的目的でそれら世界宗教の布教行為に果敢にもチャレンジしやって来たのだとしても、それらは大きな構造から見れば、世界宗教を所有する帝国の版図拡大の前哨戦として、まずやって来ることになるのだし、世界宗教の構造的必然から考えれば、それらは何らかの支配目的によって起こってくる行為なのだ。

宗教を広めようとする行為は、そうする本人が気づいていようといまいと、常にやはり何らかの支配の行為である。それが支配であることをうまく隠蔽するために、宗教は宗教として様々なロジックを常備している。自己犠牲=自己否定を説くために、それら自己の滅却の上に巨大な、世界的で、普遍的な愛の社会体系を打ち立てるために、それをやりにきたのだというロジックで理論武装されている。実際、僧侶達自身は既にそのロジックを信仰して埋没しているのであり、僧侶自身が自らの身を傷つけ、自己犠牲を民衆の前で実践してみせたりするものだ。

マルクスが『ドイツイデオロギー』でいっていた通り、歴史における戦争、侵略、略奪の過程というのも、それ自体、交通の一形態にあたっている。地理的に散在する共同体間の戦争の常態化、戦国時代的な状況をへて、次段階で帝国の宗教として現れる世界宗教とは、他者を同一化する、すなわち他者を共同体化する強制力として最初に現れる。宗教の強制力、そして普遍性の強制力(「世界性」に無理矢理目を向けさせるものの存在)とは、普通第一義的に、権力の側面から行使されたときには、そういうのものである。戦争の求心力とは最初に、支配の正当性、主権の確定を巡って大きな運動となり、地理的な他者を巻き上げていく。

しかし柄谷にとって、これらの事件、地理的世界性の表面的な増大とは所詮、共同体権力の自己増大ということであって、真の世界性の開示という事件とは異なることになっている。真に世界性が開示される事件とは、他者の他者性の発見にあたる。それは他者に対して、内部に還元できない確固たる抵抗と、核の存在をみることに通じている。

共同体的なもののうちに還元できないとは、意識によって見出される、そこにある対称性の秩序の中にそれを組み入れることができないということである。対称的秩序の中には、それの居場所がない。そのとき他者の存在とは、共同体的な意識の枠組みにとって、非対称的なものとして現れるだろう。あるいはそれは明瞭なものとして現れることができない、不在を通じてしか認識されないから、非対称的なものなのだということができる。

5.
戦争においてまず、他者とは征服の対象であり、服従させるための物的存在としてあらわれた。それは単に征服した他者を奴隷扱いすることにすぎない。しかし本当に他者を労働力として利用し、他者から生産性を引き出すためには、物的に扱うことでは成り立たない。そこには他者のための人間的な保証と精神的な基盤を用意しなければならない。武力行使によって権力を構成させる戦争の過程においては、他者に対してまだ自己と同等の人権を保証するという点にまで至らない。

次に戦争が一定終了した後、安定の過程において、国家の繁栄とは経済の繁栄によって成立する。経済が成立するための基盤、つまり市場経済の構成において要請されるルールとは、交換取引するメンバーが、お互いに共通の権利によって保証されうることである。このとき、市場において確かに他者とは、自己と同様の権利をもつ主体として見いだされねばならない。

それは戦争のときのように、相手を奴隷化することによって支配関係を成立させるというのとは、事情が異なっている。ルールを共有しないものとしての他者と自己が向かい合おうとするとき、他者の中にも自己と同等の権利を見出さなければならない。そのとき他者は交換の取引相手として見出される。ルールを共有しない他者との交換行為が成立するためには、その取引のための別のルール、市場の平等性を保証するための別のルールが土俵として要請されることになる。

私はここで「宗教」を二つに分ける。一つは共同体の宗教であり、もう一つは世界宗教である。世界宗教といっても、それはよくいわれるように、世界的に広がった宗教、たとえば、キリスト教イスラム教、仏教などといったものを意味するのではない。世界宗教とは、スピノザのいう意味での「世界」観念を(表象として)提示するものだと考えてよい。それは後述するように距離空間ではないから、距離的な広がりとは無縁である。世界宗教の「世界性」は、その「世界」観念にしかない。そして、「宗教の本質」がエリアーデのいうようなものだとしたら、世界宗教は本質的に「宗教批判」としてあらわれたということができる。
『探究Ⅱ』212p

歴史的に見て国家が戦争をするときに、宗教を動機として建前にしてきたことは、まず明らかである。本当の戦争の動機とは、国家にとってもちろん、領土であり、経済的な資源の奪取である。宗教とはこれら実質的で経済的な理由にあたるものをうまく隠蔽し、精神的で道義的な動機に、民衆に対する戦争の名目を置き換えることであった。

しかし市場においてはどうなのだろう。市場において民衆の前提になる精神性として機能するものとは何だろうか。市場によって宗教が根拠づけられるという説は本当なのだろうか。ここで柄谷行人のいう、世界宗教の世界市場による根拠付けとは、まずフィクションであると考えられる。しかしこれはどの程度に正当性のあるフィクションであったのだろうか。

むしろ実際には、市場において人々は、宗教から最大限に自由になるものだ。市場の空気とは最大限に、精神的な自由度を保つことが目的とされる。事実、市場の発達する場所には、その経済的な付随として、酒飲みの場所、バーやキャバレーから売春宿まで付きまとうものであるだろうし、賭博場もついてくる。まさに市場とその周辺には、経済的な多様性が他者的な交通の多様性として栄えるものだ。しかしキリストが娼婦について語ることをしたからといって、そこに世界宗教が宿ると見ることは、宗教の全体的システムにとっては必ずマイナーな解釈にとどまる。

一つの同じ宗教の内部だけで市場取引がなされるというのではなく、世界市場という前提である以上、異なる宗教者間の交易が、そこでは考えられる。まさに市場はそういう意味で他者を受け入れ、利益の対象として開発しなくてはならない。そのような国際空間において、要請される環境とは、特定の宗教において拘られるより、あらゆる宗教、異教の徒においても最大限の平等性が求められるもので、そこで特定の名前の宗教が特権化されるような事情は極力抑えられるべき傾向にあるだろう。そこが世界市場であるのならば。実際には市場の置かれた地域の事情によって、異なる宗教間の力関係とは様々に入り乱れる。しかし世界市場において、個々の宗教の意味性とは最大限に軽くなるものであるはずだ。

6.
市場とは確かに、いつも何かの情熱に取り付かれている、活気に溢れる場所である。しかしその情熱とは、別に宗教に捧げられている情熱とは異なる。あらゆる情熱とは宗教に自ずから似てくる、というのなら、市場における宗教的情熱の対象性とは、単純に貨幣への意志である。貨幣を増殖させる欲望にかられた、勝ち負けの華やかなるゲーム性である。

ニーチェは、人間にとって罪の意識とは、もともと負債の意識が転換して内面化されたものであり、その起源にあたるのは商取引の慣習にあたるといった。同様に、柄谷行人は、他者性の意識を開示する契機にあたるものとは、市場交換によってもたらされたと考えている。