柄谷行人の『探究』の成立

1.
柄谷行人にとって、過去に自分が書いた認識を撤回するとは、どのような条件によって可能になっているものなのだろうか。そこには幾ばくかの不思議が残っているのだ。我々がもう既に、よく知るとおりに、柄谷行人の軌跡とは揺れ動いてきた。言った事を変更し、転回をしつづけてきた。彼が最近に書いたものを見ても、それが過去に書いたものとは全く正反対の事を言っているにしても、それは我々にとって別に驚くには値しない。そして別に批評家にとって、言ってることが変わることが、咎められようとしているわけではない。

我々が最も知りたいのは、そのような変更がなぜ、どこから、必然的に起こってくるものなのかを知ることである。認識の機械的なる厳密な地平を、何が転回させ、そこに絶対的な飛躍をもたらすものなのかを。柄谷行人の著書を読むにつけ、認識が硬いメタリックな板の機械的加工によって出来上がることを知れば知るほどに、その重たい作動を続ける機械にとっての根本的な変調とは、どんな瞬間に生じるものなのかと。

我々は柄谷行人の著作によってまず次の事を知った。柄谷行人は自己の媒介者としてスピノザを選んで語った。一個人にとって、認識とは世界から強いられているものである。外部から強いられている力と関係について、改めて言葉によってそれを把握しなおすという試みに他ならない。認識とは個人の中にあっても、決して自分のものではないのだ。それは外から強いられているものの発見である。

それは自分のものにしようと思っても、することができない。それは客観的なる、自己の絶対的な外部にある世界の法則性に基づくからである。もしそこのところの法則性を失ったのなら、その個人の生産する認識はもはや他人に伝えるべき価値も失うことになるだろう。一個の認識者にとって、一個の批評家にあって、彼が世界に真摯に迫れば迫るほどに、彼の認識の地平とはその限界を露にし、彼自身を可能にしている条件に揺さぶりをかけるだろう。

かくして真に認識しようとする者とは、過去に書いたことを脱ぎ捨てながら前進せざるえない。そのようにして軌跡が転回していくこと。それは認識の生成にとって絶対的な体験の次元に当たる。云った事が変わること。それは誰にも止めることができない。それは柄谷行人によって『態度の変更』と云われているものだ。

2.

クーンのいうパラダイムは、成功した範例という意味であって、フーコーのいうエピステーメーソシュールのいう共時的体系の如きものではない。あるいは時代の支配的なものの見方というようなものではない。それは、科学者は、なんらかの明示的規則に従って真理を演繹するのではなく、問題解決の見本例に従うということである。うまく行った範例を出さないかぎり、科学のパラダイムは変わらない。後述するように、フロイトの「神経症」のモデルは、そのようなパラダイムである。これは、たとえば水泳のフォームがなんらかの原理にもとづいてあるのではなく、速い水泳選手を範例として変わっていくというのと同じことである。科学は明示的な規則体系にしたがっているのではない。私は『探究?』において、このことを「教える−学ぶ」関係において示した。パラダイムを支配的な規則体系とみなすことは、非対称的な「関係」を無視することである。
『探究Ⅱ』270P

柄谷行人は『探究』を1985年に雑誌「群像」で書きはじめている。そして『探究?』の出版が86年の末であり、『探究?』が出たのが89年である。これらは柄谷行人にとって80年代後半の仕事にあたっているものだ。その後90年代に入り、最初に「探究?」ということで連載された原稿は、途中から「トランスクリティーク」とタイトルをかえることになった。90年代の後半とは、柄谷行人にとって80年代的な認識論から一気に転回し、特定の行動に向かうためのマニフェストとして、NAM原理をまとめるまでに至る。山城むつみらとの共著『可能なるコミュニズム』をへて、2000年のNAMという形で、彼は組織的な社会運動への主体化を意識の上で果たす。これら柄谷行人の意識的な主体性の構築過程でまとめあげられたのは、彼にとっての『原理』というイデア性であった。柄谷はその過程で、80年代に流行したポストモダニズムニューアカデミズムにおけるイメージとしての、方法的懐疑の人に抗しながら、理念的行動の人へと転身を図ろうとした。

『探究』の前提になった著書とは『内省と遡行』(85年に出版)である。この本の末尾に付された『転回のための八章』は「探究」の序章にもなっている。「内省と遡行」の後書きで柄谷はこのように述べている。

この十年間、私は何をめざしてきたのだろうか。一言でいえば、それは《外部》である。・・・「内省と遡行」において、はじめて真正面から言語について考えはじめたとき、私はいわば《内部》に閉じ込められた。というより、ひとがどう考えていようと、すでに《内部》に閉じ込められているのだということを見出したのである。一義的に閉じ込められた構造すなわち《内部》から、ニーチェのいう「巨大な多様性」としての《外部》、事実性としての《外部》、いいかえれば不在としての《外部》に出ようとすること、それは容易なことではなかった。それは、内部すなわち形式体系をより徹底化することで自壊させるということによってしかありえない、と私は考えた。私は積極的に自らを《内部》に閉じ込めようとしたといってもよい。この過程で、私は二つのことを自分に禁じた。一つは、外部をなにかポジティブに実体的に在るものとして前提してしまうこと。なぜならそのような外部はすでに内部に属してしいるからだ。それは、主観性をこえるどんな外的な客観性も、それとして提示されるならば、すでに主観のなかにあるというのと同じことである。第二に、いわばそれを詩的に語ること。なぜなら、そえれは最後の手段だからだ。そして、実際には、ありふれた手段だからだ。私は可能なかぎり厳密に語ろうとした。いかなる逃げ道もふさぐために。

『探究』から『NAM原理』、そして『トランスクリティーク』と実践的社会運動体としての組織NAMの結成からその顛末に至るまで、柄谷行人の動きを連続性において捉えることも可能だが、その認識論的枠組みにおいては、彼は180度の回転を果たしたのだともいえる。この転回はどのようにして可能になったのだろうか。そこにはどんな論理的進行および切断があり、またどんな欲望が彼にとって生成したのだろうか。

『探究』のシリーズとは、柄谷行人ディスコグラフィにとって明らかに最も密度の高い、重要な仕事であったはずだ。そして『探究』を前提にして結果した彼の行動の論理がNAMであり、トランスクリティークであった。一個の批評家から社会運動家へ転身しようとすることを媒介したといえる「探究」について、そこには本当は、どんな事件があったのか、改めて検証してみるべきだろう。この著作の進行した過程で、彼は根本的な《変身》を果たしたのだ。(そしてその跳躍に失敗したのだとしても。)

3.

われわれのパラドックスはこうであった。すなわち、規則は行為の仕方を決定できない。なぜなら、いかなる行為の仕方もその規則と一致させうるから。
ウィトゲンシュタイン哲学探究」201)

これはウィトゲンシュタインパラドックスとよばれるテーゼである。柄谷行人の「探究」においても、やはりこのテーゼの解釈が導入部分の役割を果たしている。それではここから約十年程度の時間をおき、結果的に柄谷が選択した立場、「原理」という物の考え方においてはどうだろう。いかなる行為の仕方も、そしていかなる行為の解釈も、原理と、後から一致させることができる。それが実は、原理と同一の行為であるのだと、後から如何様にも理屈をつけることは可能だろう。故に自分は一貫していると言明することは、たぶん可能なのだ。

柄谷は最初に否定したはずの物に、けっきょく再び戻ってくる。そして自らそれを引き受けるに至る。自分が壊していたはずのものを、こんどは自分が担い宣伝する立場になるのだ。なぜこのような事態が生じたのだろうか。これは進化であるのだろうか、あるいはこれは倒錯であったのか?

なぜ、そして何処で、柄谷にとっては原理という思考が積極的で、主体的なものとして出てきたのだろうか。「探究」の最初の時点では、柄谷の動機は、いかにして懐疑論的立場から抜け出すか、という点にあった。懐疑論的立場に飽和を迎えさせるようにして、形式化に徹底し、内部からの自壊を招き、それらプロセスを体系的になぞり記述したものが「内省と遡行」であった。そして内省と遡行という条件によって見出された結論、パラドックスとして、イロニーとして、ネガティブにしか示しえない「それ」について、こんどは行為によって到達させようとすることが目的として出てきた。それが探究を起動させるための根本的動機になっている。ネガティブからポジティブへの反転は、行為によって可能になる。しかしそれは如何様なる行為によってなのか?

5.
「探究Ⅰ」の時点で問題にしていたのは、自己として抽象化される世界にとっての個人的行為であり個人的闘争のレベルを中心にして、あくまでも行動的ポジティブの次元が考えられていたのだ。それは独我論的境界性の発見ということでよい。しかし「探究Ⅱ」において最後に、柄谷が問題にして取上げたのは、世界宗教の問題であった。世界宗教の系譜学と普遍性の問題である。

この時点において、探究を可能にする行為における次元の問題とは、単に個人的で社会的な問題であるにとどまらず、宗教の歴史とその延長上に共産主義の歴史を引き付け、普遍性の問題へと至ったのである。行動の次元、社会的で実践的な行為次元を引き付けるにあたって、単にウィトゲンシュタインのレベルにとどまらず、柄谷が問題として反復し続けてきたものはマルクスであった事が、ここで再びクローズアップされる。