『シンドラーのリスト』をはじめて見てみたのだが

スピルバーグの『シンドラーのリスト』をDVDで借りてきてはじめて見た。この映画の評判ばかりは以前から聞いていたものだ。評判では、この映画こそがスピルバーグの最も重要な作品であるといったような調子であったと思うのだが。スピルバーグについて特に意識して見てきたつもりは全くないのだが、スピルバーグというと、最初はまだ小学生だった頃だと思う、郊外の地元の小さな汚い劇場で、二本立てくらいの遅まきのロードショー流れの上映を見たときに、その中の一本が『未知との遭遇』だった。この体験は子供の自分の僕にとって強烈だった。その後もテレビやビデオで何回も『未知との遭遇』(the close encounter of the third kind 原題は第三種接近遭遇)を見たが、そのたびにこの映画は面白い、完成度の高い映画だと理解された。『シンドラーのリスト』の事を特に話題にしていた人で印象があったのは、実は柄谷行人である。また同じく批評空間的な座談会の繋がりで浅田彰も、この映画のことを特に引き合いに出して語るものだったと思う。しかし噂には聞いていたこの映画を、僕が見てみて、実はこの映画はヤバイものなんじゃないか?という感想なのだ。いわゆる感動大作というのに相応しい作り方をあらゆる意味でしている映画だ。時間も三時間以上ある。感動的なヒューマニティのストーリーとして、最大限に幅広く受け入られやすい、何処の国の観客においても、という作り方が為されている。ここで僕の感じた違和感をどう説明すればよいのだろうか。

最初は金儲けのことしか殆ど頭になかったドイツ人のブルジョワオスカー・シンドラーが、ナチスユダヤ人迫害と接しているうちに、彼らの狂気に抵抗するようになり、ユダヤ人をひそかに救わねばならないというヒューマニティに目覚めるという話である。シンドラーナチスの大勢に逆らいながら、ひとりでその救済行為を貫徹するようになる。シンドラー自身も何度も身の危険に晒されるが、ドイツは敗戦を迎えて、彼の為してきた行為は偉大な救済として後世に伝えられるようになった。シンドラーは最初から特に、善行への真摯な意識を持っていたわけではなかった。彼はユダヤ人たちをかき集めて自分の工場の労働力にして利益を得ようとする一資本家にすぎなかった。彼がそのような特権階級の常に一員であり、選民意識を崩さず持ち続ける者であり、あくまでもその特権者的なブルジョワ意識の中の延長上に、結果的にユダヤ人の救済があったのである。たしかに事実として、そんなに状況からかけ離れた特異なヒューマニティを持つ超人的善人などいない。あくまでも、女好きで、金儲けが好きで、見栄をはって生きるのが好きな普通の性質の男が、ちょっとしたきっかけで、人道的意識に目覚めるのである。史実としてもあくまでもその辺は忠実に、善人的誇張を一切ないようにして、スピルバーグは描いているものだが。しかし、映画の中で最後に示される、ユダヤ教箴言のイデーについても、それは現実の社会運営とは絶対的乖離のある、歯の浮くような理念の姿にはすぎないはずだ。目の前のたった一人の生命を救うこと。それが世界を救うことになるのだ、という箴言である。よく聞くような宗教的イデーであるが、そのように云われることは容易くても、実際の世界の在り様と言うのは、常にそのような理念とは乖離があるのだし、そのわかりやすさゆえに、ヒット作として、多大な観衆を受け入れることはできても、あらゆる宗教的善行のイデーに孕まれる問題と同じく、その理念的言説の白々しさも、偽善性というのも拭い去れない、いかがわしさをもつエンディングであるのだろう。感動大作としてのツボをあらゆる意味で平均的に掬いあげたスピルバーグの手法に僕は苛立ったというわけでも、特にないと思う。スピルバーグは元からそのような映画しか作らない、誰にでも広く受け入れやすい理念を示すがゆえに、彼の作品は興行的に裏切らないのだし、元からその奥にあるはずの襞を押し広げることを期待するというのはお門違いだとというのも了解していた積もりだ。僕がこの映画で抱いた違和感というのは、やはりこの映画をある傾向的なやり方で、柄谷行人が既に解釈を施した映画であったということにあるのだろう。

僕は見ていて、柄谷行人がNAMをやろうとした意識の経緯の中で、彼自身が演じたがった人格像というのが、このスピルバーグの映画の中のオスカー・シンドラー像なのではないかという気がしたのだ。つまり柄谷行人にとって、シンドラーとはNAMなのだ。シンドラーは最初から、自分がユダヤ人の衆を労働力として、そこから自分のブルジョワ的利潤を引き出すことしか考えていなかった。それ以外にはシンドラーとは、女好きで見栄っ張りで、単に普通のエゴイズムを身に着けた一人のドイツ人ブルジョワに過ぎなかったのだ。ヨーロッパ人として平均的な利己的人間である。その資本主義的営利活動のあくまでも延長上に、シンドラーは反差別的な意識とヒューマニティ的な救済観念に目覚めるのだ。シンドラーユダヤ人のゲットーを見下ろす高台の豪邸に住んでいる。彼がそこの寝室でセックスに溺れている姿がスピルバーグによって描写されている。セックスの後に見晴らしのいいテラスにシンドラーは立つ。丘の上からユダヤ人のこき使われ労働する姿を、タバコをくわえ眺めながら、ライフルで狙いを定め、任意のユダヤ人を無差別的に撃ち殺すようなナチ的退廃のゲームに、最初のうちは興じていたりする。シンドラーはあくまでも特権階級のブルジョワナルシズムの中に浮かぶ存在であり、彼のそのブルジョワナルシズムとは、最後に、ドイツが敗戦し自分が逃亡を企てる前に、ユダヤの民達の前でひれ伏すときに至るまでも、殆どずっと維持され続けてきているのだ。彼は基本的に、最後の瞬間に至るまで、ドイツ敗戦を迎えるまではずっとその選民意識の中から出なかったといえるだろう。選民意識の中で、彼はナチに秘密裏の抵抗をし、ユダヤ人の救済に没頭したのだ。

ここで柄谷行人オスカー・シンドラーにどのような同一化を為しうるのかというのは、特に想像に難くないと思う。柄谷行人もまた、何かの超絶的な選民意識によって、日本で2000年の前後にNAM会員を集め、それら会員を、ナチ支配下ユダヤ人を解放するかのような手つき=意識で扱っていたとも考えられないだろうか。シンドラーが現実には、凡庸で野蛮な男だったという事実は、柄谷自身の自分で意識する性質にも自己肯定を与えるだろう。要するに、そんなにとんでもない意識で、柄谷はNAMをやろうと思ったのではないか?という疑いが晴れない。自分はシンドラー的な救世主であり、オカルト的に選別された選民である。