モーゼのイメージ

 一般に、世界宗教は、偉大な宗教的人格によって開示されたものだといわれている。しかし、そのような人格と弟子たちとの関係は、けっしてフロイトのいう「感情転移関係」をまぬかれるものではない。つまり、世界宗教も集団神経症によってのみ可能なのだ。だからまた、それが始祖の死後に、その死自体を儀礼的に意味づける共同体の宗教を作り出すことも避けられない。さもなければ、どんな偉大な人格も、世界宗教の始祖とはなりえなかっただろう。
 フロイトの運動体についても、同じことが生じている。それは、フロイトへの完全な服従と敵対に二分されてしまう。いずれも「感情転移」なのだ。フロイトは彼の描くモーゼに似ている。、偶像崇拝を摘出しつづける彼は、彼を偶像化する集団を作り出すことになる。精神分析運動は、文字通り”宗教”となる。フロイトがこの危険に気づいていなかったはずはない。しかし、彼はその理論的核心を放棄することはできない。そうすれば、精神分析が「偶像崇拝」の傾向に押し流されることは眼にみえているからである。
 晩年のフロイトがモーゼに自己同一化していたことは、たぶんこのことと関連している。『人間モーゼと一神教』は、ユダヤ民族の危機だけでなく、彼自身の危機のなかで構想されたといってよい。
 −−『探究Ⅱ』 228p

本当は、フロイトがモーゼに同一性を見出していたというよりも、実はそのように書く柄谷行人こそが最初から(80年代後半の時点から)自分をモーゼのイメージになぞらえて想像していたということが、改めて理解されるだろう。『探究Ⅱ』という本の中にある転回は、もう既に柄谷が将来、「自分の宗教」を作ることになる可能性が示唆されているのだ。

原理を提示するものとは、モーゼ的な主体である。しかし原理を渡されたものとしての自己と、モーゼ的主体を演じる自己の間で食い違いが発生したときは、どうなるのだろう?自己にとことんこだわれという個人主義的な思考は、このときこのモーゼ的原理命法のスタイル=宗教のスタイルによっては不可能であることは、簡単に明らかになり、矛盾を露呈する。

しかしこのときリサイクルされた基準とは、やはり「契約」の原理なのだ。契約を指示した者が他ならぬモーゼ的主体であり、受け取る個人の中の自己が分裂を見たとしても、必ずその関係の内的な構造として、契約を提示する「主人」の方が勝つことに、最初からなっているのだ。

モーゼにとっては、共同体そのものは滅びたところで構わないのですね。ただ、自分についてこい、自分と一緒に砂漠に逗まれる者だけを護ってやる、と。それが「契約」ということです。『旧約聖書』、『新約聖書』というのは、古い契約と新しい契約ということであり、その契約の問題を書いてある書物のことです。そういう意味で「契約」は根本的な概念ですが、それは必ず、共同体の外部へ出よ、共同体と共同体の間にいよ、という他者との契約なのですね。モーゼの神以外にはこういう契約をしたものはいないし、他の宗教でも見当たらないことは確実です。
 −−講演「世界宗教について」 86年 『言葉と悲劇』所収