神と他者の意識

超越論的動機は、「旅」や「探検」への動機とは異質である。つまり、差異や多様性を体験したいという動機とは正反対である。だから、レヴィ=ストロースは「旅と探検家がきらいだ」と書きだすのである。だが、超越論的動機が、「旅」や「探検」と切りはなしえないことも事実である。デカルトは旅人であり、探検家でもあった。旅なくして、彼のコギトはない。しかし、彼は旅に憧れたのではなかった。旅をすること、さまざまな他者に出会うこと、それは必ずしも”他者”に出会うことではない。そのことが、自分の経験的な自明性を徹底的に疑わしめるのでないならば。

デカルトのコギト(絶対的な唯一性)は、たんに相対的な他者や異質性ではなく、いわば絶対的な他者性や差異性を体験することなしに在りえない。むろん、絶対的な他者が在るのではない。他者の他者性が絶対的であり、けっして自分の中には回収できないということなのだ。旅や探検を好む者は、その逆に、他者の他者性を奪うこと、差異を吸収すること、自己の内に所有することをめざす。

デカルトは、この他者の絶対的な他者性を「神」とよんでいる。これは教会の神ではないし、形而上学的な一般者でもない。「われ思う故にわれ在り」の明証性が、「神」なくしてありえないということは、コギトが絶対的な他者性において在るということを意味する。これは、カントが批判したような理論的証明ではない。それは、超越論的(主体的)であることが、主観を構成しえないような他者によって可能なのだということを意味している。
 −−『探究Ⅱ』 196p

このように捉えられたときの他者の概念とは、神学的である。柄谷行人は神学的な系譜の中で考えられてきた神の観念を解釈しなおし、それを最後に他者性の概念のうちに回収したのだといえる。このような他者性の位相のことは、絶対的な他者(性)とよばれている。絶対的他者の位相が、世界認識において垂直に貫く縦線の位相だとすれば、これに対して、水平の位相において横の他者を見ること、まさに隣人としての他者に向かい合い発見することとは、相対的な他者性とよばれる。しかし『探究Ⅱ』の時点ではまだこの相対的他者の位相は出てこない。相対的他者の位相、つまり現在における社会的実践の位相とは、その後に『倫理21』から『トランスクリティーク』のテーマとなって、結び付けられるようになるものだ。

縦線における垂直の他者の位相とは、歴史的な時間軸に沿って考えられたときの他者性の存在のことである。神学的な神の位相と結び付けられた他者性の解釈とは、そのまま神学的な構造の投影が、未来性に向かう交信=応答=交換として連関がなされることになる。そのとき他者の神学的位相とは、『倫理21』において、未来の他者の存在の想定ということになり、神学的義務として歴史的に考えられてきた他者性の在り方とは、未来の他者との交換=未来の他者への責任、ということになって提示されなおした。昔の思考において、神への義務と考えられていたsubjectivityの在り方とは、未来の他者への義務という形式に変換させられたのだ。そしてその未来に対するヴァーチャルな応答に通ずるという点において「倫理」という概念が開かれなおした。スピノザ的にも神が不可視の潜在性によって顔の見えないものとして偏在するように、それら抽象的な責任と主体性を可能にさせる、来るべき他者の存在というのも、顔の見えない他者としての抽象的な通路であり、潜在的な次元にあたる。

このようにして柄谷行人は、哲学史における神学的主体性の思考を、史的唯物論としても基礎付けなおす現代哲学の射程によって捉えなおし再生産した。もちろんこの神学的=超越論的主体性の系譜とは、もっと粗雑な形では、そのままマルクス主義の歴史的展開として19世紀から20世紀の時代にかけて存在したものであり、柄谷行人の計ったのはその現代的な綜合であり反復であった。垂直における絶対的他者の線と、水平における相対的他者の線を交差する点を作り出すこと。そこに世界性を開示するポイントを導き、行為を世界史的なものに働きかける超越論的統覚として基準を作り出すことが、NAMという概念によって原理的な結晶化を見たのだ。