欲望された普遍性−普遍性を欲望するための二つのケース

自己否定   → 普遍性

固有名    → 普遍性


しかし、普遍性を固有名によって可能にするとは、どのようなことをいうことになるのだろうか。ここには、普遍性概念を維持してきた宗教の歴史にとって、ある異和を発生させる契機が必ずや含まれることになるものだ。柄谷行人は、歴史的にいって宗教の中に内在してきた精神哲学の在り方を綜合して、そこにある反転を企てた。

宗教を宗教たりうるものとして自己正当化できるものとは、その宗教が示せる普遍性概念の所在にある。個の立場から宗教にサブジェクトしうるとは、それが宗教を媒介する行為によって、時代的で地域的な、個人にとっての相対的な他者、その共同性に向けて個をサブジェクトさせうる、そうすることによって共同体の全体統治と維持−再生産をなすという機能を実現することにある。宗教とは社会を安定させる装置として存在してきた。宗教とは共同体にとって主に治安を実現させる。

個の生命を超えて、それより優位にある崇高な全体性の存在を示すことは、国家=共同体の為に身を賭して死んだものに、正当性を付与し、観念的な報酬をあたえる。共同体と宗教の為に戦って死んだ個人に与えられる最高の名誉の報酬とは、普遍性というイデアなのだ。

なぜ現在のアメリカ国家は、あれだけの高度な物質的、情報的な豊かさを享受しながらも、常にいまだにその体制の精神的支柱として宗教的装置−キリスト教の存在を必要としているのだろうか。それはアメリカが常に戦争をしつづけて、自己体制を維持しているシステムであるという事情に理由があるはずだ。戦争は常に自国の為に戦って死んだ者たちを出し続ける。軍隊の出動は、常にそのメンバーの何パーセントかは、殉死として想定しなければならない。対外的な戦争によって自己を維持させる国家体制とは、必ずその殉死者のための崇高な名誉、精神的勲章を示して与え続けなければならない。

そういう意味では、日本人の中では割合として比較的、他国と比べたときに宗教の意識は薄いというのなら、それはここしばらくの間(戦後60年)日本が国家的自己システムの維持としての対外的な戦争をしなかったことによるものだろう。逆に、日本でこの先、現在における一般的国家と同じように肩を並べて、国家の所有する自然権としての軍隊と交戦権を復活させ、戦争によって自国のため犠牲に供した死者を弔う必要にかられたとき、その段になって日本人の中にも宗教的意識−そして戦死した死者を正当化するための「普遍性」意識というのが逆説的に復活し、立ち上がってくるものになるという可能性は強い。もちろんそれは右翼的な国家性からの普遍性意識なのだが、死者が身近でないところで、普遍性の意識がリアルに発生しうるということも、まず原理的にいってありえないのだろう。人間の性質からいって。もちろん、そのとき切実に体験された死への身近な意識が、また再び左翼的な世界レベルでの同時的な武装力放棄としての普遍性=永久平和の理念として強い反転も伴うことになるだろう。

つまり普遍性という冠を与える必要性とは、これら国家のために戦って死んだ者たちの自己否定と引き換えに、その観念とは常に要請されてきたものだ。普遍性とは、自己否定を代償するシステムで、歴史的にはあり続けてきた。それが普遍性概念の具体的な存在理由であり、歴史的な必然性である。現実的な国家治世レベルでは、普遍性とは自己否定と引き換えに生じている概念装置である。

人が普遍性の概念を欲望するようになる起源とは、歴史的な利他主義の在り方にあると考えられる。そこでは倫理的なものとは、自己の外へと飛び出す仕種であると考えられてきた。それは宗教的な愛の包摂する世界体系の観念であり、自己否定することの根拠、また他人を自己否定させることの根拠、共同性を崇高化することの根拠として、普遍性の概念とは欲望されてきた。つまりそれを欲望する主体にとっては、それが欲動断念(の記憶)の代償作用なのだ。

これに対して、固有名によって普遍性を欲望するとは、それではどのようなケースであったのだろうか。歴史的に考えてみよう。基本的に固有名を普遍性に繋げようとする欲望とは、歴史に名を残す、という意味での個人の名誉欲であったものだ。裏を返せばそれは権力を志向する構造によるエゴイズムになりうるのだし、実際そのような不純で疚しいものであり続けてきた。それは事実としてあるだろう。少なくとも固有名を普遍に繋げようとする意志、欲望を、単純に考えたとき、ストレートに捉えたときには、それは必ずそのようなものになるだろう。固有名にこだわること、それはむしろ歴史的な宗教哲学の中では、エゴイズムということで片付けられてきたものだ。逆に、何かの固有名が特権化されることで、偶像崇拝によって共同体の存立が可能になる。故に名前=ノミナリズムを巡って、それを自己放棄させることと、一部で特権化させることは、宗教システムとして、そして共同体の存立構造として、必然性として両面に渡って機能する。

このように普遍性の欲望とは、普遍性が欲望として見出されるときの根拠とは、動機とは、二つの側面を持っているのだ。

多神論の場合の神というのは、自分は無力だが、その無力をなんとかカバーしてくれるもの、結局のところ、自分自身の本来あるかもしれない力なりを外的に思い浮かべたもの(自己疎外したもの)ということになりますね。それは、ある意味ではナルシズムと呼んでもいいと思います。ですから、同時にそれはいつも呪術的なものです。つまり、祈ればなんとかしてくれるのであり、祈るということが自分の願望を実現することになるのですから、そういう場合の宗教というのは、本質的には呪術だと考えられます。

・・・普通に考えられる宗教というのは、どうしてもナルシズムの延長になります。ここで念のため注意しておきますが、ナルシズムとエゴイズムは違います。ナルシズムはしばしばエゴイズムを超えたものとして現れます。理想のために死ぬとかいったぐあいにですね。共同体の宗教は、そのようなナルシズムとしてエゴイズムを否定するのです。

ところがモーゼの神というのは、(一神教の神、偶像崇拝の禁止をする神のこと)どういうわけか共同体に対する徹底的な否定を持っている。つまり、そういうナルシズムに対する徹底的な否定を、最初から持っている。モーゼの神は、ユダヤ人が共同体の側に行くことを怒るのです。
世界宗教について」 『言葉と悲劇』