道徳と倫理の違い

1.
ドゥルーズは、スピノザに即して、モラルとエチカの違いについて説明している。道徳的な善悪とは価値の対立に基づくものであり、超越的な基準を持って審判の体制を作るものであるのに対して、エチカとは、この審判の体制自体を引っくり返すものであり、生のありようそれ自体の質的な差異(としての良し悪し)にとって代わるものである。

道徳的な物言いとは、そのときタイポロジーの方法によって脱臼させられることだろう。それがあるタイプに属しているのに過ぎない思考であり情念の傾向であると告発されるとき、その根拠となるのは、どこまでも内在的な生それ自体のありように即することである。

物事の原因と法則とは、それが意識にとって、因果性が理解されていないとき、「〜すべし」という道徳的な物言いの命令に化すだろう。意識とはある事態を目の前にしたとき、その理由を理解していないから、いつでも簡単に道徳と化すのだ。そして意識とはその表面において、常に理解能力には乏しいものだというのは、人間的な意識の存立構造からいってみれば宿命的な業なのだ。

2.
これに対して、エチカにおいて問われているのは、生の質のレベルそのものである。生の質とは、要するにそこにあることが、喜びであるのか悲しみであるのか、という差異にあたる。気持ちいいのか、悪いのか。あるいは最悪の気分の悪さの中でさえもなお、まだそこには快い疲労が感じ取られているのかどうかということ。・・・このとき悲しみの感情とは廃棄させられる。いや、それが依然として悲しみのブルーな色調の中にあるとはいえ、その質的な強さによって、単なる悲しみよりもそれ自体、生の力能として自立性を勝ち取っているのだ。

道徳的な命法の存在とは、それが生じているのもある社会的な必然によるものだとしても、悲しみの中に留まる事を強いる傾向的な惰性を所有している。しかしこのときエチカにおいて救い出される生の実質とは、生を肯定しようとする力の存在である。生を肯定し享受する力の存在を妨げるもの。それがスピノザにとって悲しみの定義にあたっているものだ。

ということは、まず社会的な発生において第一義的に生じたと考えられる道徳律の存在に対して、エチカの生ずる瞬間とは何なのだろう。 道徳によって囲われる命令の存在、それが具体的な生の実在にとって耐え切れなくなったときに、エチカという次元が生じるのだろうと考えられる。

3.
ドゥルーズスピノザについてまとめたレジュメによればこういうことになるだろう。

道徳→命令によって善し悪しを確保する 超越的な要因による
倫理→認識によって良し悪しに到達する 内在的な要因による

意識の言うことをそのまま受け取ってみよう。道徳的な法とは、なすべきこと・あるべきこと(義務・本分・当為)であり、服従以外のなんの効果も目的もたない。そうした服従が必要不可分の場合もあれば、その従うべき命令が十分根拠のあるもっともなものである場合もあることだろうが、そんなことは問題ではない。問題は、こうした道徳的もしくは社会的な法が私たちになんら認識ももたらさず、何も理解させてくれないということだ。最悪の場合には、それは認識の形成そのものを妨げる(圧制者の法)。最善の場合でも、法はただたんに認識を準備し、それを可能ならしめるにすぎない(アブラハムの法・キリストの法)。この両極端の中間では一般に法は、その生のありようゆえに認識するだけの力をもたないひとびとのもとで、認識の不足を補う役割を果たしている(モーゼの法)。
ドゥルーズスピノザ・実践の哲学』第二章

ドゥルーズにとって、倫理とは認識の次元に関わるエレメントにあたっている。そしてこのドゥルーズの立場とは、知性の完成を目指す方向によってしか、能動性とは与えられないと考えていたスピノザの立場に等しい。しかし倫理の実践性を見る立場としては次に、倫理とは質的な次元として、具体的なものに関わるのか、抽象的なものに関わるのか、という問題が出てくることになる。倫理が抽象的なものとして出てくるとは、どのような場面であろうか。あるいは、そこで倫理とは潜在的な次元に進行するものであるともいえる。

倫理が棲む領域とは、何か逆説的な次元による。表面的なレベルで取り仕切っているのは、いつも道徳の役割であるからだ。道徳とは、社会機械の連関にあたって法的な次元を担っている。あるいは道徳とは慣習的なレベルで言えば、礼儀作法のことだといってよい。しかし時に我々は、表面的なこの作法的な部分を、破棄しにかかることあるだろう。それを破棄したほうが、精神の構成にとっては、必然的に正しくなるような場面である。

時に、それは歴史的に見て、内面的な次元などと呼ばれることもある。道徳に関わるものとはまず命令的なもの、すなわち従属的なもの、服従的なものとして出てくる。それに対して倫理的な次元とは、あらゆる意味で服従を拒否し、命令と服従の存立を、認識の構成よって置き換えるものとなるだろう。

4.
倫理とは、認識の抽象力の中に根ざす。それは倫理という存在条件からして、絶対的な条件である。しかし抽象化の問題とは、次にこのような問題を孕む事となる。超自我的なものに対する絶対的な服従。それは絶対的に我は神に従う、あるいは神という名が廃れた無神論的で唯物論的な時代に生きるなら、神学的な次元における絶対性、理念の絶対性によって従う、という構図の中で、私は従い続ける、という意味で、倫理という観念が囁かれるケースもあるのだ。この場合ではどうなのだろう。

このとき倫理とはとても抽象的なものである。抽象的で絶対的な君臨として、倫理とは超歴史的な次元として、存在の位相を持続させることになる。この混乱はどこから来たものだろうか。我々は、倫理という名のもとでもまた、服従の形式を再生産してしまうことになるのだ。スピノザのエチカにおいてはどうだったのだろう。確かにスピノザは迂回した形でまた、神への絶対忠誠を打ちたてようかとする形式にも、読みようによっては見えるだろう。

特にエチカの前段階で、スピノザが偽名を使って発表した『神学政治論』においては、スピノザは神に対する絶対的服従の必要性を説き、「我々は神の奴隷でさえあるのだといってよい」とまで述べている。しかしここにはスピノザの両義性がある。スピノザは倫理としての絶対的な忠誠性と服従性について説きながらも尚、そこにはあらゆる社会的な制度物としての権力を解体させてしまうようなウィルスを忍ばせている。