『個人的な体験』を巡る

大江健三郎が二十代の終りに書いた小説、『個人的な体験』において、自己欺瞞の意味について問われている。自己欺瞞を否定するがあまりに出口がなくなる自意識の持つパラドキシカルな構造が、この作品には露わなる痕跡として残されている。それは出口のない苦悩と意識の構造的な存立を巡っている。ある堂々巡りの経験の記録である。

アフリカ地図を眺め回すことに、未来の自分の姿を重ね合わせて内面的な心の安堵を得ていた予備校教師をしている三十代に差し掛かった男、通称バード=鳥。鳥の妻ははじめての出産を間近に控えている。しかし鳥は、自分の子供を持つことに対して積極的な観念を見出せないでいた。新しい生命に対する希望というよりは、それが自分の未来にあったはずの希望をむしろ潰してしまうのではないかという不安に怯えていた。

ゲームセンターで不良少年たちに襲われて喧嘩をした不快な夜の後、病院から電話がかかってくる。妻に子供が生まれたのだ。しかし鳥が伝えられた情報は、どうやら生まれてきた子供には異常があるということ。鳥は医院へ行き、医者に告げられた。子供は脳ヘルニアの障害をもっている。これは手術をするしかない。しかし正常に育つ見込みは定かでないし、よしんば死なずに育ったとしても脳障害は免れないかもしれない。バードは苦悩に襲われる。生まれてきたのは無垢な存在だとしても、自分はこれをどうやって受け入れればよいのだろう。医者が鳥に告げたのは、鳥には手術を拒否する権利もあるということだった。

生まれてきてしまった前途の見えない不安定な赤ん坊の存在を巡って、バードによって形而上学的な問題の構成が展開することになる。もし、障害をもつことがわかっていても、それでもその生を父親として引き受けてしまうとしたら、それはどういうことなのか。障害があるとわかっている子供を自分は引き受けるのだろうか、赤ん坊には密かに死んでもらうこともできるのだ。

その問題自体が本来は自己の形而上的な悩み、そして悩みとしてのナルシズムであり自己表現において捉われて生じているにしても、それをもはや自己ならざる問題、絶対的な他者の生存としてこの世に生み出してしまう、それをやはり人間の生における生存上の形而上的な問題として作り出してしまう、自らの囚われているサガについてである。これも所詮は贅沢な文学的悩みの自己疎外態であるのだろうか、バードが障害のある赤ん坊について、それを引き受けてしまうことは自己欺瞞にあたるのかもしれない、しかし自然死を待って見殺しにしてしまうことも自己欺瞞にあたるのだろうか。

そもそも、そのような文学的=形而上的な問題を構成してしまうバードの身の上こそが、ある知識的なブルジョワの、端くれとしての奇妙な問題であるのかもしれない。この個人的=強度に形而上的な問題の前で、バードは彼自身の生存上の実存的意識=プライドから全ナルシズムまでを注ぎ込んで、ある問題を構成しようとしている。それは個人的な体験にまつわる形而上的で極度に抽象的な賭けである。しかしそれは具体的な個としての他者を、この世界に産出してしまった。ある倒錯的な問題の種子である。

「ともかく、自殺しないでね、バード」
「こだわるなあ」と薄暗がりのなかで充血し膨れあがっている火見子の眼から、やはり異常を呈してきているように感じられる自分の眼をそらして鳥・バードはいった。
そこで火見子が黙りこむと、女プロデューサーが待ちうけていたようにバードに向ってこういった。
「遠方の病院で自分の赤んぼうが砂糖水だけあたえられて衰弱死するのを、ただ待ちうけている、という状態がいちばんいけないのじゃない?バード。自己欺瞞だらけで、不確実で、不安で!だからあなたは憔悴しているのじゃない?バードだけじゃなく火見子も痩せてきたわよ」
「しかし、自分の手許にひきとって殺してしなうこともできないよ」とバードはさからった。
「むしろそうした方が、自分の手を汚すことがはっきりしているだけ、自己欺瞞がなくていいと思うわ、バード。もうどうしても、極悪人の自分から逃れられないし、ただ極悪人になるほかなかったかといえば、それは異常児から自分たち夫婦の甘い生活をまもりたかったためなんだから、エゴイズムの論理はとおっているわ。血なまぐさいことは病院の他人にすっかりまかせて、本人は遠方で、突然の不幸にみまわれた善人よろしく、おとなしい被害者みたいな様子をしていようとするから、精神の衛生に悪いのよ。それが自己欺瞞だということを、バード自身、知っているでしょう?」
『個人的な体験』

大江健三郎にとって小説『個人的な体験』のモチーフとは彼の実生活上の事件ともちろん重なっている。彼が最初の男児をもったときに孕まれた重い事件を脚色して小説は出来上がっている。大江自身の実存上の問題意識が反映されている。正常に育つ見込みのない乳児をあえて引き取る。手術をせずに自然死に任せるという選択もありえたとは、小説の設定でもなっている。それは一個人の生にあって、受難をあえて選択するという生き方である。たまたま大江自身は小説家という職業であったがゆえに、そのような受難の選択=文学的な生の選択も意味をなすのだろう。

しかし彼がもし、他の普通の職業であったとしたらどうなのか?敢えて受難を選択するという身振りは何の価値もなくなるのだろうし、むしろそれは精神異常者の域に入れられることだろう。大江健三郎は自分の特殊な身の上に、更に特殊な選択をしたのだ。 しかも彼の宿命として、社会的な義務として、その特殊な身の上の事情を、文学的な形式にまとめることによって、社会に報告し続けなければならないということになる。特権的な職業上に課せられた、倒錯的な業となるのだ。

これを読者の立場から真似る事はできない。しかし文学的な幻想というのは、大江の読者に対して、何らかの形でこの奇妙な生き方に、奇妙であるがゆえに社会的な関心をそそったこのマゾヒスティックなスタイルに、巻き込んでしまう心理的なメカニズムを持つのだろう。大江のファンであればあるほどに、無意識的にここにある倒錯に、無垢な人々を巻き込んでしまう。これは精神分析的に、大なる立場から見れば、やはり罪なのではないだろうか。これは果たして「正しい」小説の書き方なのだろうか?

「個人的な体験」は、大江健三郎の小説家人生にとって転換をなした。それは彼の実人生と重なる絶対的な転換であった。その選択がなされたとき、もう大江にとって後戻りのできない、前の位相には戻れない絶対的な転位を受けたのだ。そして大江健三郎はそれを自分の運命として引き受けた。

「個人的な体験」が発表されて、大江は必然的に社会から批判を浴びた。三島由紀夫がこの作品を批判した。大江的選択の危うさが問われた。例え三島自身が、やはり選択的虚構性の中で外部を消失させる技の中にその文学的世界観を根ざしていたのだとしても。中上健次は否定した。柄谷行人が否定した。大江的選択の虚構性を否定するという意味で。俺だったら生まれてきた白痴の子は殺している。・・・白痴の子とは、それが自分の子供として出てきた場合には、殺すべきだ。もし殺せる余裕が社会的に残っていたのなら。そして、白痴の子とは、それが他人の子であった場合、我々はその意味について、仔細に形而上的な考察にかけることができる。

坂口安吾的に見積もっても、また守銭奴の老婆を殺人してしまうところから始まる『罪と罰』を書いたドストエフスキーにとっても、白痴を巡る合理的で自然主義的な態度というのは、そのようなものであるのかもしれない。大江の冒したのはあるタブーだったのか。あるいは自己犠牲になれた宗教的精神の硬直した系譜からすれば、それもまたよくある見慣れた光景であったのか。