グッバイ、鶴巻町−精子ちり紙で拭く

左翼的思弁性の形而上世界に対して、そこに本当に唯物的なリアリティが入ってきてしまうことは必ずしも幸福な事態とはいえない。形而上的思弁性の維持のためには、現在のリアリティをある意味、見ないですましてしまえる思弁性のシステム、常に未来の革命、未来の他者の次元を体系的に招き入れることによって、リアリティが本当に開示されてしまうことをなんとしてでも防ごうとする思弁性のシステムというのが、歴史的な左翼システムの中で発達していたものだといえる。映画「レフトアローン」の冒頭、導入部で、ソビエトにおいて、レーニンの演説写真の中で、横に写っているトロツキーの姿を後で削除していたという事実を巡ってはじまっている。しかしソビエトの執行部の人々であっても、当時はそれを歴史的な善意だと思って削除したのだろうということだ。彼らは別に信じて疑わないで、それをやってしまうことができたのだ。

左翼的な理念が現実の唯物的世界で、現在の上で受肉化されてしまうことは、実際には不気味な畸形性を伴う人間の生態をそこに生み出してしまうのだろう。この畸形性に誰が責任を負うべきなのかも、もはやはっきりしないのだし、どこを起源にして、何が化学反応を起こして、こんなわけのわからない姿になってそれが生きているのかは、なかなか定かにはしがたい。しかしそれが畸形的だといっても「路上」的な場所において生き生きとし、自己を主張しつづけている場合がある。

たしかにある種の知識人たちは、この路上に投げ出された私生児たちの畸形性について、頑なに責任を取ることを拒もうとするだろう。理念上、なんとしてでもそれが存在していることを、なかったことにしたがる。ある種の知識人たち・・・。しかし左翼とは、この理念と人間性と唯物的な生命と残骸の、無慈悲に入り混じった畸形性としての現実と付き合い続けることだといえるのではないか。左翼の現実性とは、この路上に放り出された私生児的な生命たちの生態にあるはずだ。

そしてある種の知識人的想像とは異なり、私生児たちは歴史を持たない。それは歴史を持たないが故に、プロレタリア的なのだ。そしてドゥルーズガタリの場合は、遊牧民とは歴史を持たない、と定義している。彼らは歴史を持たない、持とうとしない、そういう欲望とは関係ないがゆえに、彼らにとって最大の課題とは常に現在を肯定することでありつづける。時にそのように現在を肯定する姿とは、動物的な生の顕在でもありうる。

左翼のシステムとは近代社会にとって必然的なものである。構造的な必然性として左翼とはシステマティックに場所を取らざる得ないものだ。人的交流の場所としても、言説的な生産としても、精神性の確認の場所としても。しかしその存在は単に必然的なのであって、それ以上の意味はもてない。左翼が未来において社会を統合するような世の中になるという想像もありえないものだ。

もし構造的な改革として社会に変動を与えるのならば、それは上からやるしかない。具体的には政策与党の力を利用して上からの改革としてそれをやる以外にないだろう。下から自然現象を伴い、社会が変動していくという過程も確かにあるものだが、下から社会が変わるという点については、明らかな物理的限界があるものだ。下から社会が自然発生の拡大を伴い変動するというときは、最も分かりやすい単純な部分においてしか、それが大局的な拡大を見るということはない。流行発生しやすいものは分かりやすいがゆえに広まる。同時にそれは分かりやすい最大公約数的な抽象度しか最初から持てないがゆえに、それが−下からのものが、どの程度に社会に影響を及ぼしうるかというのは、最初から計算可能な範囲のレベルでしかないだろう。

左翼はシステムとして必然性と需要を伴いながら残り続けるだろう。しかし同時に左翼の正体というのも既にわかりきっているものだ。そこに集まってくる人々は、他者との肯定的な共生を果たそうする。あるいはそこもまた敗者復活戦的な舞台であったり、また上から左翼を支配してやろうという倒錯的な支配欲にかられた知識人が出てくることも後をたたない事だろう。左翼とは劇場である。特にそこは残酷の劇場であるという部分も残り続けるだろう。左翼とは結局、そこでこそ人間的な野蛮さというのが最後まで残り続ける場所でもあり続ける。メジャーとしての一般社会から自律をもとうとするが故に、そこには自治的な小集団としての野蛮さも残る。人間的な野蛮さ、前近代性というのも結局、左翼の中でこそ最後まで残り続けることになる。

そして「68」という数字には結局どういう意味があったのだろうか。そこに提示された概念が意味をなしうるというのは、それを使って何かの新しい発明のために応用可能である限りにおいてである。68の特権化から導き出される意識とは、それじゃあ次の自然発生的革命は60年周期説でならって、2028年に来るのだから、そこに向かって準備しましょう(=NAMでもやって!)という、オカルト的な倒錯の意識ぐらいしかそこから出てこないだろう。むしろ、たとえ本当に次に周期的な世界革命の波が来たとしても、そこの正体は既に予測可能であると考えることができるはずだ。どの程度にその時代が虚妄を振りまき、何を裏切り、何を維持し、どのようなやり方でまたその波がひいていくものなのか、すべて今から計算可能だろう。歴史と反復の構造的な認識の意識の中で。