奴の悪循環

鎌田哲哉は『構想と批判』におけるスガ秀実論において、「奴の悪循環」というポイントからスガ的批評の特徴を論じている。スガ的なロジックの性質とは、まず批判すべき問題となっている対象の論理構造内において、そこでは何が「内−外」の分割として組み立てられているのかを観てとり、次にそこで言われているものの「外(の外)」を見出し、指摘することによって、そこには内部で「奴の悪循環」が働いていることを、メタ的に見出すものである。しかしこの方法とは、スガにとって常套的なものであり、そのパターンの反復にはいささかの退屈さを覚えると鎌田は言っている。

スガ論の中で「二重の闘争」とも呼ばれるこの二段階的な批判ロジックは、鎌田にとっては、やはりそれも批判する側の自己優越の意識にすぎず、また沼地としての全体構造の中へと堕しているものではないかという疑義が発せられている。批判するものの矛先が自分自身の足元への自己批評とならないことが、結果として見られるアイロニカルな現状追従を論理的に強化しているにすぎないということになる。現実をメタ意識から見限ろうとする者とは、同時に現実からも見限られてしまうことになるだろうというのだ。特に論考「全共闘という愚行」などに示される、スガの疎外論批判が転落していく様を指摘しながら、幾つか例をあげ、スガの批評が回収されていく様が論じられている。

しかし、批判の先に、共同的な割り当てとして見出されるとするはずの責任分担を自己に呪文のように課す事によって、それで批判の為のアリバイを完成させるような構えによって、批判者としての正当性(資格主義?)を与えるというやり方は、それ自体、アリバイ工作的批評の落とし穴を感じる。なぜなら、批評は批評として純粋なものであっていいはずだ。批評する前提は自由であっていい。問題となるのは、そこで言われている内容に中味があるか否かなのだから。

どんな事をいってもそこに中味となる純粋に論理的な面白さ、捻りがなければ、いくらアリバイ的に共同作業に私は負い分を担っていますから、といったところで、やはり批評は意味をなさない。そのような退屈さに充ちた労働者批評、労働者文学、あるいはルサンチマン浪花節倫理評(全共闘世代など)を我々は今まで幾らでも見てきたはずだろう。鎌田哲哉の、他人にも、そして自分にも不必要な重荷を呪詛のように背負わせようとする、共同的磁場の重力を意識的反芻によって無理に重くさせるような批難のパターンには、むしろ病的なニオイを感じる。

奴の悪循環とは、それでは本当は何処に見出されるのだろうか。穴つるしの罠とは?捕獲装置とはどこにあるのか。左翼運動の現場と商業ジャーナリズムの接点にあたる場所にであろうか。インターネットの中?特に「2ちゃんねる」的な空間だろうか。商売と権力の交叉して入り混じる場所にだろうか。

奴の悪循環を切断しうるものとして、柄谷行人が発見したものが「売る立場」であったことは明らかである。柄谷行人によれば、奴の悪循環とは主体が「売る立場」に立てないというジレンマからくるものになる。やっている営みについて、そこに正当な報酬が受け取れないとき、労働と報酬の量的関係が計算不能なとき、そのような営みとは悪循環に陥る。報酬とは金銭のことかもしれないし、また社会的な名誉の次元、承認の次元にあるものかもしれない。起きている出来事を経済的なサイクルとして認識を捉えなおし、そこにメタ的な把握を可能にする主体的立場を新しい足場として作っていく営みもまた、それ自身メタとしての新しい経済的な立場となる。

しかし売る立場とあっても、それは決して万能なものではない。売る立場に立つことがうまく機能する場面というのは限定されているだろう。むしろすべての空間的なもの、論理的な立場であっても、それらは使いようによってはいつでも奴の悪循環に転落しうるというべきだろう。

柄谷行人にあっては、売る立場の前提になる主体の出現する背景については、最大限の自由があるものであり、それはどこから来てもよい、マーケットの成立する平面上にそれが登場する限りの形式性でよいというものであった。柄谷行人は最大限にこの地点ではリベラリズム的なものである。(少なくともNAMの以前においてはそうである。)それは形式主義の範疇の中でも最大限に形式的な自由が活用されうる、形式をルールとして前提にして、その上で個人が自由を発明しうる範囲にあったのだ。

もし、この主体の背景に、精神主義的な重力を呼び戻し、義務付けられた重みを付与してしまうことは、再び内面性の次元にまで主体を引き戻してしまうことになるだろう。そのような内面性とはもちろん悪い意味での文学的なものの存在に他ならない。交換の現場に現れた自己と他者はこの文学的同一性に強迫的に拘束されてしまうものになる。そこには浪花節(として現象し受け取られる「倫理」)はあっても、自由の唯物的な素顔とは微妙に損なわれている。これは柄谷批判として現れたものであっても後戻りであり、退行現象である。

そもそも奴の悪循環なる仮定に気づくか気づかないか、という問題が、個人にとって必ずしも不幸な問題ではない、という日常的な現実性のレベルがある。一般人にとって、凡庸であるかもしれないが、現実的な意識として、そこには「奴」があるのかもしれないし、あるいはないのかもしれない。奴、奴、叫ぶ輩達は、所詮ちょっとイカレタところのある知識人たちか、あるいはその被れであって、そんなものは生活者の現実性にとって意味をなしたことなどない。それが本当の歴史なのよ、と世の中の大多数の人々は、そう呟きうる。したたかなる現実とその手ごたえの中で、忙しく生きているのだ。

しかし市民や一般人というわけでもない。生活者というカテゴリーにさえあてはまらない。明らかにカテゴリーという分類表からは落ちこぼれているのだろう。しかしその強烈な、生のありのままの這い蹲る存在のリアリティが、一際、目だっている。這い蹲っているのがわかるゆえに、強烈に地面の現実性というのを発散しているような感触がある。それが映画の最後には暗示されることになるものだ。花咲政之輔スガ秀実の対話においてである。

それまでの形而上的な論理仮定に対して決定的な他者性を導入する、ある地べた的なアクチュアリティのシブトサと逞しさの存在感の導入は、ある意味観る者を唖然とさせたことだろう。そこには過剰な論理も思想もなく、言ってることさえ滅茶苦茶といっても過言ないのであろうが、そこにはシブトサと路上の即物的に温度が上下する密着した地点に定位して観測された時間と経験の蓄積としての、奇妙なリアリティがあるのだ。

このリアリティとの邂逅は、はじめて観る者にとってきっと衝撃的であったはずだ。目をそむけたものもいるだろうし、くだらないと席を立ち、途中退場した者もいるかもしれない。発言の内容にげっそりして不快感をおぼえた観客はいることだろう。しかし反発や不快感も含めて、この最後の邂逅こそが、それまで辿ってきた左翼現代史の時間軸にとって最も唯物的なリアリティを含んでいたはずなのだ。