白紙の散乱としての68年革命的症候群

映画「レフトアローン」にとって最も核心的な問題構成にあたる部分とは、鎌田哲哉スガ秀実との対談にある次のような部分であるのだろう。

鎌田「坂口安吾は「イノチガケ」や何かで、「穴つるし」というキリスト教を弾圧する技術に何度も言及しています。つまり「火あぶり」で弾圧すると、人々が信者の姿に感動してますますキリスト教に改宗し帰依してしまう。それを防ぐために江戸幕府が二十年か三十年かけて発明したのが「穴つるし」という方法で、キリシタンの全身をぐるぐる縛って穴の中に逆さに吊るしておくと、その人はもがきながら何日もかかってやっと死ぬ。長い時間がかかるから感動が一切なく、散文的な死しかないせいで、見物人もうんざりして引きあげるようになった、と坂口は書いている。」

鎌田「花田に言わせると、死ぬ直前の坂口自身がまさに「穴つるし」の刑にかけられていた。・・・花田吉本論争の勉強よりこっちの方がずっと、面白かったんですが、とにかく僕が思ったのは、手続きを尊重するというのが、別に窮屈で形式的な事柄ではない。本当は「穴つるし」に勝つ、「穴つるし」的な試練に勝利する原則や技術を探すことなんじゃないか、ということなんですね。・・・僕が手続き的なことといったのはそういう意味です」

スガ「ただ、おそらくこの当時、手続きという問題は吉本にも、吉本がシンパサイザーとなった安保ブント、全学連にもないわけですよね。手続きという問題が全く欠落しているんですよ。ニューレフトというのは基本的に手続きを無視することにおいて登場してきた政治勢力であり、文化的思想的勢力だった。ブランキズムとか小ブル急進主義とか言われるのはまさに手続きを無視することにおいてなんですね」

鎌田「じゃあ小ブル急進主義は批評原理にならないんじゃないですか。執拗な、散文的な時間というものに勝てないんではないですか」

『LEFT ALONE 構想と批判』鎌田哲哉×スガ秀実「小ブル急進主義は原理たりうるか」

この問題において基本的にスガの立場と鎌田の立場は平行線である。そして交わるところがない。ただいえることは、スガが経験的な左翼の立場から、手続きの突破における左翼的なものの自己主張性をいうのにある確信をもって語っているのに対して、鎌田は、これはこうあるべきなのだという形式論理の原理的な強固さについて、信じているところを疑わない。手続き的な媒介を、時に暴力的に突破することをもって、左翼的な力動性の隆盛と見るのか、あるいは手続きを丹念な意図で見出しては紡ぎ、繋げていくことをもって、たとえそれが目には見えにくくとも倫理性であり、それが単なる精神的倫理性にとどまらず、「穴つるし」的な社会的罠の存在、捕獲装置の巧妙で『散文的』に張り巡らされた状態に対して、有効な抵抗と、具体的な乗り超えを可能にするのか、という問題が争点として示されている。

スガが前提としている確信とは、現実の歴史的な左翼の経験性に基づくものであり、それは可視的でリアルで享楽的な欲望の隆起として左翼が起き上がるとき、それら現実に起こってしまう欲望の顕在化の正確さの前では、目の前に立ち塞がる手続き的、形式論的な障害を、まさに目に見える形で破壊的に踏み拉いていくことを可能にする。また現実に左翼の大部分では、そのような可視の祭典として左翼運動の価値というのが今まで多くの人々に語られてきたものである。そして鎌田の場合、形式ではなく手続きをと言いながら、それもやはり言っていることの意味とは、形式論的立脚性の有無のことを問題にしている。形式を巡る諸問題として見れる。

68年的革命と深い類縁性をもった、かつ幅広く問題を含む著作として「アンチエディプス」の存在をあげることができる。形式の問題とは、68年的に前後する状況が抱えていた欲動的なパワーとフランス的思考の歴史的な流れが、ドゥルーズガタリに合流することによって、一度この時点で解決と破壊が試みられている。人間的な媒介性として示される形式的拘束を最終的に吹き飛ばすところの、欲望の正確な発現を見ることによる無媒介性の飛躍に賭ける思考、究極の反形式主義、欲望の闘争的な優位の次元を示した。

「アンチ−エディプス」という事こそは、想像を可能にする限りでの最大限の反形式主義である。それは西洋的思考の行き着くところまでいって転倒された解放主義の姿である。そんな次元が本当に実在するのか否かという謎は、このドゥルーズガタリ的な仮説に対して残るとしても、すべての形式的還元のメタレベルとして残るのだろう、欲望の審級を、それは経済学的に解き明かした。更に続編としての「ミル・プラトー」に至るラインにおいて構成されているテーマは、形式的な意識の領域としての条理空間に対する、無意識的な欲望の解放としての平滑空間の存在の定義である。

「革命的なもの」の二つの解釈としてあり得るのは、条理空間に変更を加えてそれら形式的なものを別の形式へと移行させていくことと考えること、それか平滑空間の中にある特異性の無数の体験として与えられるものと考えることである。平滑空間ということが、目には見えない経験の実質のことをいうのだとして、それら見えないものの体験を規定しているものとは、目に見える形式に条件付けられて派生するものである。そこで問題としうるのは、目に見える形式と目に見えない体験を橋渡しする、マイナーなる可視性としての小形式を示す方法だということになる。(東浩紀的にいえば、不過視なもののレベル)鎌田哲哉によって含意されているのは、そのようなマイナーであるがゆえに文学的な形式としてのコミュニケーションのありかのことだろう。

68年的革命にとって内在的な理念として、欲望の無媒介性ということがいわれたとき、それは最終的な信仰の在り処、そして持ち方というのが、欲望の審級にあるということが主張されたのだろう。アンチエディプスとは、純粋欲望の仮定によって、欲望という非人称的エナジーに対する神学構造を再生産させているといえる。そこでは欲望を形象化することによって現実化しうる身体性の次元とは、器官なき身体と定義されなおすことによって、転倒がなされ、畸形化されたアイロニカルな身体の次元が示された。そして神の存在とは、歴史的にいってそのような畸形化する巨大な一元的身体のことであった。

欲望の無媒介性とは、欲望の純粋性のことである。しかし、それは本当に実在しうるものなのだろうか?あるいは実在するとしてそれが何か意味があるものなのか、特にそこに革命的な意味があるというのは、本当のことなのか、バロウズアルトーを根拠にしながら、欲望の内在的な破裂を肯定するあり方が、革命的表出になり、破壊することが即創造的でありうるような方法論が、アンチエディプスによって模索されている。

形式による建築を目論むというよりも、破壊によって創造するというアイロニカルなアクロバット=即ち芸術としての革命的表現ということが言われているのだから、そのような主張によるものとは、絶対的にマイナーなものにとどまり、またマイナーなものを顕彰するあり方によってしかありえない。革命の現実性というよりも、革命理念の内的な純粋性を譲らないとき、ドゥルーズガタリのような立場には、歴史的に正当な信頼があるということになる。

ドゥルーズガタリにとって、形式とは鬱陶しさを伴うものだ。形式の維持ということで言われてる信仰の持ちようとは、歴史的にいっても、自己抑制の顕揚であり続けてきた。それは自己犠牲の点によって組織化を維持する、キリスト教文化の存在そのものである。形式の中で我慢することとは、とても内面的な行為の内容である。形式の中で、そこには収まりきらない潜在的なものの過剰を自己維持しようと努力することをもって、内面的な努力というのだ。そこでドゥルーズガタリにとっては、我慢することというのが、嫌われる。形式の中で、本当はそれが耐えられないものであることを発見し、耐えられないことを肯定することをもって、革命的なものの到来する契機、形式に対して欲望の逃走することの優位性を、客観的な正当性として確認しようとするものになる。

形式の論理が社会関係に反映されるとき、それはとても純粋なものではありえない。社会的関係としての形式のあり方とは、なんらかの権力関係に包含されてある。それら権力関係の本質とはエディプス的な形式である。エディプス形式とはそこらじゅうに偏在し普遍的なものの見せ掛けをもっている。エディプス的必然性の形式論理とは、きっと礼節の観念として反映されている事だろう。常に形式論理の亡霊として、権力とエディプスの相関関係が復活してしまうような成り行きになる。この形式主義観念の屈折した反射の中で、言うべきものを忘れ、口を封じることを美徳と勘違いし、権力の内包によってなし崩し的に絡め取られてしまうような危機的な状況が発生する。(要するにこれはまさにNAMの事なのだが!)

すべてがエディプス的内包=エディプス的権力の欲望に吸収されてしまうかのような、本来は純粋であるはずの欲望が、腐敗して朽ちていく様に反抗しようとするとき、アンチエディプスという反形式主義的な主体性の持ち方というのは意味をもち、輝きうるはずだ。欲望とは別にエディプス形式に依存しないことを、事件あるいは芸術的な表出をもって表現し、権力の屈折した有様を破壊することである。

アルトー的な白紙、そしてバロウズ的な記憶空白・・・しかし、欲望の内在的な破裂が一個の自動化運動のプロセスとして革命的なものをうむ瞬間とは、どこで見出されるのだろうか。「動物への生成変化」とも呼ばれることになるだろう、受動性を基準にした機械状マテリアルによって覚醒され、プラトー状態の隆起が立上がる契機とは、深く歴史的な時間感覚とそれを捉えている厳密な自意識とのコラボレーションで成り立っている。もしそうでなければ、欲望の内在的な破裂とは、ただ単に動物的にキレルこと、幼稚化して凶暴化した現在の出口を見失っている傾向と変わらなくなってしまう。浅田彰はそのような絶対的な顕現の予感には慎重であれという警告を発している。

(浅田)ポストモダニズムが本当に完成したなと思ったのは、平野啓一郎が出てきた時です。それ以前の人たちは良かれ悪しかれアイロニカルなパロディを書いていた。たとえば『薔薇の名前』のウンベルト・エーコだって、今さら本気で書けないから、中世を舞台にシャーロック・ホームズもののパロディを書いてみたわけでしょう。しかし平野啓一郎は本気で書けてしまう。絶対が顕現すると頁が真っ白になってしまう−−それも、たとえば赤塚不二夫少年マガジンを何頁も真っ白にしたとか、そういうことを多分ぜんぜん知らずにやってしまうわけです。
・・・そこには距離の意識とそこからくるアイロニーというものがまったく存在しない。この歴史意識と自意識の欠如は新しいといえば新しいんですが、ちょっと当惑せずにはいられませんね。少なくともそれでは蓮実さんのいわれる意味で一九世紀の問題に向かい合ったことにはまったくならない。むしろ、ポストモダニズムの完成によってモダニズム以前に帰ったというべきかもしれません。

浅田彰×蓮実重彦 『ゴダールとストローブ・ユイレの新しさ』新潮五月号

「距離の意識とそこからくるアイロニー」といわれるとき、形式的な前提、条理的な前提というのが構築的に(モダニズム的に)見失われていないときのみ、芸術的な快としての破裂、あるいは緩みとしての隙間を垣間見えることの喜びが到来しうるのだという事情を改めて原則的に確認している。散文的な全包囲を前にして、よくキレテ、爆発する、「絶対」という名の白紙の散乱する有様とは、退屈な景色と化した。それはいまや68年的イメージが、商品的で消費的なイメージ、キャッチフレーズとしてこそよく流通しうるという状況の空疎さにも繋がっているものだろう。小さな白紙としての小さな快楽死の痕跡とは、デパートのトイレの片隅にうず高く積まれて捨てられた紙屑の山のようにもよく消費されて、そして使い捨てられたものだ。