村上春樹の『ダンス・ダンス・ダンス』(1988年)

中上健次の「冷凍トレーラー」、大江健三郎の「雨の木」と、80年代的状況、即ち空白でありエアポケット的な空間性と時間性において、そのとき人が抗いうる方法とは何なのかについて、それぞれ示されている。中上健次にとって、それは移動すること、車を使うことであり、大江にとってそれは、聴くというスタイルを持つこと、静かな生活を確保する中から、耳を澄ますこと、そして泳ぐ男のように自己トレーニングすることであった。村上春樹の80年代にとっても同様の空間的イメージがやはり問題化され、そこに対抗する手法が提示されている。村上春樹的な結論として、それは踊り続けることである。踊ること、踊らねばならない、あるいは踊りを取り戻さなければならないという啓示とは、村上春樹の世界に登場する「僕」にとって、羊男という分身による囁きとしてあらわれる。『音楽の鳴っている間はとにかく踊り続けるんだ。おいらの言ってることはわかるかい?踊るんだ。踊り続けるんだ。何故踊るかなんて考えちゃいけない。意味なんてことは考えちゃいけない。意味なんてもともとないんだ。そんなこと考えだしたら足が停まる。一度足が停まったら、もうおいらには何ともしてあげられなくなってしまう。あんたの繋がりはもう何もなくなってしまう。永遠になくなってしまうんだよ。そうするとあんたはこっちの世界の中でしか生きていけなくなってしまう。・・・』僕が、分身の羊男と再会する場所とは、「いるかホテル」である。いるかホテルとは、このようなものとして定義されている。『とにかく不思議なホテルだった。それは僕に生物進化の行き止まりのようなものを連想させた。遺伝子的後退。間違えた方向に進んだまま後戻りできなくなった奇形生物。進化のベクトルが消滅して、歴史の薄明の中にあてもなく立ちすくんでいる孤児的生物。時の溺れ谷。それは誰のせいでもない。誰にそれが救えるというものでもない。まずだいいちに彼らはそこにホテルを作るべきではなかったのだ。あやまちはまずそこから始まっていた。・・・』

村上春樹がこの作品で示している、社会を俯瞰するイメージとは「雪かき」というものである。雪かきは労働のメタファーとしてあらわれている。資本主義が一定の高度化を果たした現状で、人にとって仕事を見付ける事はさほど困難なことではなくなっているが、それら労働は雪かきと同様のものとして処理されると考えられる。来るものを片っ端からどんどんシステマティックに片付けていくだけのことである。人生の無駄遣いと思えないこともないが、しかし文句を言えるものでもない。高度資本主義社会とは、巨大な蟻塚である。僕は、いるかホテルに向けて想像を委ねながら、僕にとって社会に戻るとは、この雪かきに社会的作業として再び参加する、参入されうるということに他ならない。そして、いるかホテルとは札幌に実在したはずのホテルであった。郵便受けに、月面の絵葉書が入ってるのを発見する。彼女からの絵葉書だが、僕にとって他者と交わると云う事は、もはや月面の世界と関係を持とうとする位に、抽象的で、真空で、実感のないものとなっている。僕にとってそのとき振り返られうる内在性の記憶とは、札幌にあったはずの、いるかホテルの記憶である。ホテルを再び訪れるが名前の変わってることに驚く。これは僕の知ってるはずのホテルではない。変わってしまった新しいホテルから、昔のホテルを発見するまでの間に、僕は幾人か友人の死を体験する。友人の死とは、沈んだ車が港で引き上げられるイメージによって明らかになる。昔の同級生で映画俳優として活躍した男がスポーツカーで海に飛び込んでいた。高級コールガールをやっていた女の子の死。幽霊のような存在感で、浮いたような大金を掴む仕事をしていた友人が消滅する。これら他人の死によってもたらされる消滅についても、まだ僕の内部で実体の緒にまでは繋がらない。重要な到達とは、僕がここにいるままで、僕の存在を掴み直すことなのだ。

いるかホテルのイメージに立ち返ってみよう。いるかホテルとは、進化の失敗した場所である。ただ僕と取り巻く浮いたような友人たちの生きる場所とは、高度資本主義社会としてイメージが捉えられ、そこは失敗したはずの進化について、うまく巧妙に隠蔽されている場所なのである。死ぬはずの友人の一人に、ベトナム戦争で片腕を失ったアメリカ人の詩人というのがいるが、彼にはかろうじて、高度資本主義社会の舞台が表象的に出現する前の、進化の失敗を記憶として身体に刻み付けていた。そしてそういった記憶をまだ刻まれていない存在としての少女として、ユキという女の子が僕の探索する道程のお供となってついてくることになる。浮いたような金が飛び交う現場とは、高級コールガールのような職業である。そこで知り合った女の子は、原因不明に殺されてしまったりする。僕の関係する浮遊的世界の視界において、その下にあるものとは、バブルの底で隠蔽されている進化の失敗した有様である。そこの部分に残してきた記憶とうまく接続が成立しないが故に、映画俳優になった同級生も、漠然とした存在感の不安を何処かに抱き続けた。これは80年代的な、豊かになった日本の表面に生じた憂鬱の症状である。失敗した進化の場所と、現実に得られた抽象的に豊かな世界との裂け目として、ヴァーチャルなものの実在が、深くこの作品世界の上には、何重にもなって覆いかかってくることとなる。作品に登場する大人達は、潜勢的な世界と現実化した世界のギャップが見えてしまうことによって苦悩している。「僕」の苦しみの理由もそこにある。