『いちご白書』をもう一度見たら、結構納得した。

月曜の深夜はBSで『いちご白書』をやっていた。1970年の映画である意味有名な映画である。70年代のフォークソングで『いちご白書をもう一度』というユーミンの作った曲があったのだ。しかし改めて見ていると、ホントひどい映画だなあという感じである。見てるほうが辛くなってくるような感じ。逆に何の前提もない人がこれを見たら物珍しくて面白いのかもしれないが。奇妙な世界の話であるが、この奇妙さは70年代前後には共有されていた奇妙さなのだろう。要するに60年代にコロンビア大学生の学生運動に関わった手記を、NYではなくサンフランシスコを舞台に移して映画化したものである。当時は相当人気を得た映画だったのだろう。しかしユーミンってこんな映画すきだったの?へーぇ、つーか、ついてけない。学生運動が大学の中で暴走的に膨らみながら最後に見事に敗北していくという話。遊園地を潰して軍事施設を建設するという行政に反対してるのだが、それが敗北する模様、立て篭もった体育館に警察が突入して学生達がもっていかれる模様を、ラストに延々と映している。最初はボート部に属していた男子学生が活動家の女子学生に惹かれて学生運動に入っていく。大学をバリケード封鎖して砦を作っていて、その中で性的な冒険を含めて色んな体験をする。それをニール・ヤングなどの歌声に乗せて延々と描写してるという映画だ。敗北主義のセンチメンタリズムというのなら、まさにこの映画のことである。「転向」論とかいうときに、戦前の共産党のなんとか声明とかいう話をするより、この映画一本で全部それよりリアルに理解してしまうのではないかな。なぜ人は突然態度が変わるときがあるのか?(もちろん本当はずっと変わってないのだが。)『いちご白書』とは原題が『Strawberry statements』なのだが、いちごの国家という意味も担ってるのだろう。本当に学生バリケードの内部とは、いちごの国のような追想として切り取られている。しかし、いちごの国とはやっぱり現実にはなれない。

筋もはっきりしないし、断片的な映像を分裂したまま強引に、唐突に纏てしまうという映像の流れだが、60年代から70年代にかけて、こういう分裂的な映像の手法は多い。どこが妄想でどこが現実かがわからなくなるような編集なのだが、有名な『イージー・ライダー』もそういうところあるし(でもイージーライダーはまだいい方でまだ見れる方)、ロジャー・コーマンの何とかというシリーズとか、『キャンディ』という学園物とヒッピーとロリコンが混ざったような映画とか、ドラッグの効果をそのまま映画に反映させていたのかもしれないが、大抵の場合は意味不明な垂れ流し映像に繋がる。しかし『いちご白書』や『イージー・ライダー』やロジャー・コーマンはまだ商品として流通が成立している分だけ、編集がましな方なのだろう。いずれにしろ『いちご白書』とは既に歴史的なドキュメントとして参照しうるような資料であり、悪循環とは何か、無意味さとは何かということについて調べてみるなら、すべてこの段階で集約されていて、そういう意味では今見ても資料価値はあると思う。(しかしあくまでも資料価値であって、映画としての出来はつらすぎる。よくこれだけ詰まらない映画を人は平気で作れたな、平気で人は見ていたのだなという事実に驚く。)基本的にやっぱりある種の無意味さというのは繰り返されてしまうというのが、近代社会の宿命なのだろう。