『ロッキー』という映画をはじめて見たよ

日曜の深夜にテレビで『ロッキー』の映画をやっていた。実はこの映画を僕はまだ見たことなかった。これが子供の頃に学校で流行っていたのは覚えている。ともだちが、凄く良かったと言い張っていた。宣伝のイメージでは、子供心に確かにカッコよさそうな映画だなあという気はしていた。ポスターを見るに、CMを見るに。なぜだか僕はロッキーのシリーズで二作目だけを劇場に見に行ってるのだが、他を見ていないのは、すぐに興味がなくなったからだろうと思う。池袋劇場という70年代には池袋で一番大きかった、今はもうない映画館まで見に行った。テレビ欄で深夜にやることがわかっていたのでチェックはしていたのだが、なんだか胃の調子が悪くなり、夜中に近所の公園までいって草叢にゲーゲー吐いていた。戻ってきて気分の悪さを癒していながら、気がついたら放送は始まっていて、冒頭部分の幾らかを見逃してしまった。僕はなんとなく吐くときは外の草叢でやる方が妙に安心して気分が落ち着くというたちなのだ。もしかしたら変な質なのかもしれないが。

ロッキーは、思っていたより暗い画像の映画だった。たぶんNYの下町を舞台にしてると思ったのだが、貧乏さの滲み出ているアメリカの町並みで、空の調子もどんよりと曇った感じが続いている。ロッキーの第一作は76年みたいだが、アメリカのあんまり幸福そうではない70年代の町の空気とは、こんな感じだったのだろうかと妙に納得した。アメリカ人なら豊かであるというような思い込みとは、日本のテレビ放送から切り取られた断片的なイメージに過ぎなかったわけだ。エイドリアンというからだの弱い女性と、三十を目前にしてボクサーを諦めようとしているロッキーが出会う。感謝祭−thanks giving−の夜に、酔っ払った兄貴から嫌がらせを受けたエイドリアンをロッキーがデートに誘い出す。スケートリンクに連れて行くのだが、今夜はもう営業を早目に閉めるというので、お客は一人もいない。それが古めかしいスケートリンクだ。後片付けをする係員から10分間を10ドルで、リンクを貸切にし、エイドリアンはスケート靴をつけてたどたどしく、ロッキーはスニーカーのままで、人気のない寂しいスケートリンクをぐるぐると回る。この寂しい風景の中から、要するにロッキーの身の上にはアメリカンドリームが、偶然降って来るわけだ。アポロというチャンピオンの黒人ボクサーが、ちょっとした気紛れで、ランダムに無名のボクサーを選び出して対戦試合をやりたがった。アポロがロッキーを選んだ理由は、リングネームが「イタリアの種馬」というのに滑稽さを見出したからだ。アメリカを発見したのはイタリア人である。そのイタリア人を黒人のアポロが打ちのめす。おもしろいだろう?というノリである。無名の人にチャンスを与える。これがアメリカなのだ、とアポロは自分の動機とポリシーを語っている。*1アポロはそう語るとき、アメリカと云う事の誇りを、共産主義国家の通俗的イメージに対して示しているのだろうが(ロッキーの脚本を書いてるのは確か、シルベスター・スタローン本人であり、自分で映画会社に売り込みに回ったのだという)、無名性、下の階級の人間にチャンスを、という思考の在り方が、アメリカ国家の理念と共産主義の理念では、こういう風に違う形で、取り込まれているのかとわかった。たぶん脚本を書いたスタローンは、社会主義共産主義というのは、そういう社会なのだと単純に思い込んでいるのだ。そしてその通俗的な思い込みは殆どのアメリカ人大衆にとって普通に共有されてるものである。

本当に暗い画面、いじけたくなるような辛い風景が、主に曇り空の下で延々と続く映画なのだが、この辛さが見てうるちに逆に段々やみつきになってくるのではないだろうか、という位にしつこい。これが何かカルト的な魅力となって、70年代当時の観客には見ているうちにサブリミナル効果のように、脳内麻薬が出てくるような奇妙な反復性に繋がったのではなかろうかという気がする位である。脚本にしろ、ストーリーの流れにしろ、本当に単純でステレオタイプな演出が続く。この単純さ、徹底的な凡庸さというのが、大衆的な感覚にとって、あまりにもわかりやすいのだろう。本当に単細胞に、見ているものは、既に自分の中に刷り込まれている紋切り型を、ロッキーを見ながら確認をする、強化するようになっている。当たり前の話を当たり前に確認して繰り返す。あまりにも強固に当たり前すぎて、画面から出るマッチョな強制力を身に受けることが、仕舞にはカルト的な快感になってしまうという感じだ。唯一当たり前でないのは、恵まれないロッキーの身の上に千載一遇のチャンスが突然降りかかってくることだが、それはおそらく宝くじで大当たりを取るのと同じ位の偶然的確率である。病弱で不幸そうな面影を隠せないエイドリアンは、母親からは、あんたはからだが弱いから頭を使いなさいと小さい頃から諭されていた。それに対してロッキーは、本当に、肉体的タフネスしか他に取柄のないようなマッチョで単純な男である。ロッキーにあるのは、一途に振り返らず努力する才能だけである。

ロッキーというと有名なのはテーマ曲になっている音楽である。確かにこの曲は、よくできてるのではないかと思う。ロッキーのキャラクターもわかりやすいが、テーマ曲もわかりやすい。本当に単純で、すべてが強固にわかりやすくできていて、微塵の疑いも入れない映画である。ロッキーという作品は興行上の大ヒットを記録した。それはこのわかりやすさの強固な反復性の故である。映画がヒットをするということは、そこには必ず何か理由があって、大衆に受けてヒットするのである。ロッキーの流通力の背景には、ちゃんとそれなりの理由があるのだ。そしてそのメカニズムは、分析して把握しやすい。しかしこの低いわかりやすさのメカニズムというのは、さすがにアメリカの市場でも、日本でも、70年代のものであって、今ではもう通用するものではないだろう、この位の仕掛ではさすがに、今の映画の観客を大衆的に騙すことは、もうできないだろう。ロッキーの映像で、唯一これは普遍的にいい味を出していると感得するものは、やはりアメリカの貧しい階層の町並みの、曇り空の下の、冬の寒々しい夜空の下の、くどいような寂しさの反復性だけである。ロッキーが最後に、血塗れの顔でヒーローインタビューのマイクを向けられて、質問の話を全く聞いておらず、エイドリアン!エイドリアン!、とだけ叫び続ける有名なラストシーンも、何故そうなるのかは必然性が全くわからず、物語の筋を全く無視して超越してしまうほど、要するにロッキーは自分の小さな恋人のことを一番愛してるのだという、すべての論理的構成を破綻させる強引さ、強硬力をもって(これもまたアメリカ的マッチョ主義だが)、広汎なる観客層の感動を呼んだということではないだろうか。

*1:僕はこれを見ていて、?、アメリカを発見したのはコロンブスで、コロンブスってスペイン人じゃなかったの?とも思ったんだが。それでネットを調べてみたらこういうことだった。『アメリカを発見したのはコロンブスであり、もっと正確にいうとアメリカ大陸を発見したのは、アメリゴ・ベスプーチだと言います。』『アメリゴ・ヴェスプッチは、アメリカ州を探検したイタリアの探検家・商人。フィレンツェ生まれ。1497年-1503年の間に、数回、南米から新大陸へ航海。クリストファー・コロンブスを始めとするヨーロッパ人がアメリカ大陸を「東アジア」であると考えたのに対し、ヴェスプッチは「アジアとは別の大陸」(ヨーロッパから見て「新大陸」)であると主張した。「アメリカ」の名の由来は、アメリゴ・ヴェスプッチのラテン語名Americus Vespuciusから。(Americusの女性形がAmerica。)』。コロンブスに関しては、『毛織物業を営むドメニコ・コロンボの息子として1451年に生まれたとの文書があるが、これについては異説も多く、はっきりした事は解らない。出身地に関してもスペイン、イタリア北部等諸説がありはっきりしていない。学会では少数ながらユダヤ人の出身であるという説も唱えられている。若い頃から航海に関わっていたようではあるが、これも良く解らない。エーゲ海のキオス島へ交易航海に出たりしたといわれるが、はっきりしない。』そうだったのか、知らなかった。アメリカの名前の由来についても実ははじめて知った。そしてコロンブスの名前に由来している国とはコロンビアである。スタローンの脚本が別に間違っていたわけではないようである。アメリカの正当性の系譜とは、大陸に辿り着いてもこれはアジアだと死ぬまで言い張ったコロンブスではなくて、これは新しい大陸であると分析したアメリゴさんの方を建国のポリシーとして選択していたのだな。