「雨の木」を聴く女たち

大江健三郎の80年代において、彼は既に定点として一定の日常的生活の中に留まっている。彼がもっと引きこもり的なスタンスによって世界の影と格闘していたのは、70年代のことであって、『洪水はわが魂に及び』のように、家の中に引きこもり、分身として障害を持つ子供とともに外部世界の影を追っていた孤独な悪夢の体験は、徐々に克服した段階の後である。それなりに社交的であり、友人達との交流を大切にしながら日々を過ごす作者は、世界と自分を繋ぐ糸口を、新たな肯定的なイメージによって見つけることを模索している。やはりこの作者は、外を流離うことは自分には不向きなことだと悟っていて、定点的な観測の方法を模索して、家の中で、ある光景のイメージを膨らませている。それは、レインツリーという樹木の存在である。膨らんだ枝葉から水を滴り落としている大きなレインツリー。雨の重みを包括しうる樹木のイメージ。友人の建築家の話を聞く。建築家が構想している大きな障害者用施設の計画とは、個人が建物の中で何処にいようと、常に自分の「位置」を把握することが出来るような施設、そんな建物である。

雨の重みを滴らせていること、それは記憶の重みでもある。作者の記憶は、メキシコで生活したときの日々へと繋がっていく。彼はメキシコで出会った文学のイメージとして、マルコム・ラウリーの小説『活火山の下で−Under the volcano』をずっと読み続けている。火山の傍らにて、その全体的な影響の痕跡を発見するという世界像、しかし、いま作者が探しているイメージとは、火山とは逆の種類ものである。それは大きな雨の木のイメージである。雨の木が静かに水を含んだ、倫理的な静けさによってだけ守られる、声の響きのイメージを、80年代的な空白の中で、作者は世界の記憶を全体化しうるものとして見出している。作者は家の中で篭っている日々を送るものだとしても、決して運動と身体について意識しない生活を送っているわけではない。彼はスポーツクラブのプールで毎日千メートル泳ぐことを日課にしている、「泳ぐ男」である。

内省を続けるための生活は、自己に課した一定の身体的トレーニングの中で深められている。身体とエロスのイメージを回復することは、この作者にとっての義務にも当たっているのだろう。定点観測的な外部世界との繋がりは、友人たちの記憶に繋がっていく。ロッカールームにある静けさの中で他人とすれ違う。プールの水槽に頭を埋めているときの音と時間が止まったような真空の宙吊り感。個人の抱えている内部世界の重さと、すれ違う他者との遠い距離から触発される想像のとりとめない流れ、静謐と孤独と情動の混じりあう濃密な感じが、よく出ている。建物の中で水気を帯びながら共鳴する遠い声、飛び込みで水が飛沫をあげる音がエコーする。過去の友人が樹木に首をかけて死んだ事件、その彼が強姦して死んだ友人女性の記憶など脳裏のうちへと引きつけられる。室内プールの構造による微妙で秘密裏のエロスの醸成によって、他人に起こった不可逆的な出来事を様々に想像しながら追体験している。これも作家にとってはマスターベーションの一種なのだろうか?

内在的な若き日の経験−強烈なもの、活火山的なもの−からはもう切り離された後で、外部世界とのリアルな繋がりを再び模索するという在り方にとって、日常生活のうちに、自己の形を留めておくことのできるルーティーンを作って生活し、日常生活のうちの平凡で微細な深みのうちから、死んだ他者の声を拾い集め、大きな樹木の枝葉のように、それらの姿を繋ぎ直す。80年代にはもう明らかになった、平和で空虚な日常生活の圧倒的な勝利を前提にして、死者の声、他者の姿を、全体像の中で、潜在性として、再び巡り合せる構想が、大江健三郎による、雨の木の音を聴くというイメージによって示された。日常生活の中の倫理性を発見することへの誘い。個人的な生活をスタイルとして持つ倫理。ルーティーンワークの中で、ストイシズムの中に見え隠れする微妙なエロティシズムの希求。泳ぐ男=大江健三郎によって見出されているのは、個体的な生活の、社会と一定の距離の置き方から作られるところの、主体性である。